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【ネタバレなし】「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」に思う

 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を見てきた。公開初日、朝7時から上映している劇場があり、初回に鑑賞した。以下、極力ネタバレを避けて書きますが、「まったく何も知りたくない」という方は本編をご覧になってからお読みください。

 結論から言うと、傑作だった。ネット上には今作の展開について予想した文章や動画が溢れているが、少なくとも自分が見た範囲では、いずれも実際とは異なっていた。四半世紀にわたるファンとして、まさかこういう結末だとは、と驚く一方、いい終わり方だったな、とも感じている。同時に、「エヴァが続く日常」に馴染みすぎてしまったせいか、長年の友人をなくしたようなセンチメンタルな気持ちにもなっている。

 ざっとおさらいすると、「エヴァ」が最初にテレビシリーズとして放映されたのは1995~1996年のことだ(全26話)。ラブコメの要素すらちりばめられた、少年少女が主人公の「ロボットアニメ」なのに、哲学的、宗教的、精神分析的なエッセンスなどもふんだんに盛り込まれている。とりわけ、物語の流れから突然切断され、ただひたすら主人公らの内面を描く最後の2話は注目を集め、エヴァは社会現象になった。物議を醸したこの2話の風呂敷をたたむため、1997年には劇場版「Air/まごころを、君に」(旧劇、通称EOE)が公開される。当時、私は20代半ばで、試写会で見て、比喩ではなく腰を抜かすほど衝撃を受けた。

 劇中に実写を取り入れたり、あからさまにファンを挑発する場面を挿入したりと、EOEには複雑な仕掛けが施されている。衒学的であることも相まって、様々に解釈され、再び大きな話題になった。結局、私は試写会を含めて5回も劇場に足を運び、その後も繰り返しDVDでこの作品を見た。いくつかの謎は残されたままだが、庵野秀明監督がエヴァという物語を使って何を訴えたいのか、痛々しいほど率直に表現されていて、何度見ても打ちのめされた。

 その後、テレビ版やEOEを「リビルド(再構築)」するとして、新たな映画シリーズ「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」が製作されると報じられた。この時、正直ちょっと戸惑った。テレビ版やEOEのあとも、社会のエヴァ熱は冷めることなく、多くのグッズやゲーム、パチンコなどとのコラボレーションが展開されてきた。アニメとは別だが、メディア業界の片隅にいる者として、「もう商業的にエヴァをやめるという選択肢はないのかもしれない」と感じた。一方で、一ファンとしては、完結したはずの大好きな作品が、お金のために無理やり延命させられるようにも感じられて、新劇場版に小さな抵抗感があったのだ。

 果たして、最初の「序」(2007年)と続く「破」(2009年)は、ほぼテレビ版のストーリーをなぞるリメイクだった。いずれも十分楽しんだくせに、ひねくれものの私は、「何で今さら、庵野監督はこんな焼き直しをつくるのだろう」と落胆もしていた。今作につながる3作目の「Q」が公開されたのは、2012年。ここでストーリーは劇的に転換し、時間軸が一気に「序」「破」の14年後に飛ぶ。加えて、それまで一貫して保たれていた「人類を滅亡させる謎の敵・使徒に、特務機関ネルフが人造人間エヴァンゲリオンで立ち向かう」という物語の基本構造も、様変わりしていた。

 ネルフを率いるのはこれまで通り司令官の碇ゲンドウである。だが、前作までゲンドウの部下だった葛城ミサトや赤木リツコらは、ネルフと敵対する新たな組織「ヴィレ」を率いている。エヴァのパイロットだったアスカやマリもヴィレの人間だ。一方で、やはりエヴァを操っていたレイ(と同じ姿かたちの少女)は、記憶を失い、なぜかネルフに身を寄せている。14年ぶりに幽閉を解かれた主人公の碇シンジ(ゲンドウの一人息子)も含め、エヴァのパイロットの少年少女は、なぜか14年前と容姿が変わらぬままだ。

 シンジにもこの間、何が起きたのかの記憶がない。「人類を救うため」、そして、「破」のラストでは自分に受容的に接してくれた「レイを救うため」、シンジは命がけで使徒と戦うのだが、再会したミサトやアスカの視線は冷ややかだ。ほどなく、自分のふるまいが人類を破滅に導く「ニアサードインパクト」の引き金をひいたらしいと分かってくる。けれども、シンジにはその記憶がなく、もちろん、意図して引き金をひいたわけでもない。

 理不尽に耐え兼ね、ヴィレを飛び出したシンジはネルフで謎の少年カヲルと出会う。幼い頃、実母を亡くし、厳父のゲンドウにも捨てられた(と感じている)シンジは、レイに代わって自分を受け入れてくれるカヲルに惹かれていく。だが、ヴィレとの戦いの中、カヲルの首はシンジの眼前で吹き飛ばされる。さらに、良かれと思ってとったシンジの行動は、またしても人類を滅亡の瀬戸際に追いやる「フォースインパクト」を引き起こすのだ。死屍累々となった世界に愕然とし、茫然自失となるシンジ。そのシンジを引きずるように、アスカ、そしてレイが荒野を歩いていくーーというのが「Q」のあらすじである。

 「Q」を見終えて、8年前の私は「これはもうエヴァではない」と感じたことを覚えている。「焼き直し」には不満を抱くのに、想像の斜め上をいく新展開にもケチをつけるのだから、まったくたちの悪いファンだ。

 シンジという14歳の主人公を通し、「人と人とは分かり合えないのだ」「家族や愛など偽りにすぎない」という「所与とされてきたことの虚構」を描こうとしたのがエヴァの物語の「本質」だと、私は思っていた。以前にもnoteで書いたが、テレビ版の放映が始まった1995年前後というのは、そういう物語が説得力をもって受け入れられるのに十分な時代だった。

 バブル経済が崩壊し、株価や地価が下落、銀行や証券会社が次々と破綻した。今から思えば滑稽だが、かつて、株価や地価は「下がらない」と信じられてきたのだ。また、この年には、家族の反対を押し切ってまで若き秀才たちが入信したカルト教団が、通勤時間帯の地下鉄に猛毒をばらまくという史上最悪のテロを実行し、この国の「安全神話」を瓦解させた。未曽有の災禍となった阪神淡路大震災も同じ年に起きている。

 「普通の女子高生」が援助交際と称して売春したり、使用済みの下着を売ったりする現象がメディアで注目されたのも1990年代半ば。同時期、「1999年には恐怖の大魔王が舞い降りて、人類を滅亡させる」とする「ノストラダムスの大予言」も改めて話題になった。

 これまで長く「当たり前」とされてきたことが、まるで社会の底が抜けたように「当たり前」でなくなって様子を、多くの人たちが目の当たりにしていた。不透明で、先行きが見通せず、重苦しい空気が、「終わらない日常」を覆っていた。

 「大きな物語の終焉」(ポストモダンな社会)が本格的に到来した、というのが当時の社会時評の定番だった。「大きな物語」とは、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが「ポストモダンの条件」(1979年)で提唱した概念である。「科学によって人類は進歩する」「資本主義と民主主義が人々を豊かにする」といった、近代社会を維持する社会的・文化的なコンテクストのことを意味している。これら、所与とされたテクストを喪失した状態こそが「ポストモダンな社会」であるとされた。

 1995年はまた、Windows95がリリースされ、「インターネット元年」と呼ばれた年でもある。四半世紀が過ぎた今から振り返ると、インターネットはその後、あらゆる分野に決定的な影響を及ぼしたが、当時はまだ、現在のようなデジタル社会は見通されておらず(インターネットが過小評価されていた)、議論は主に「インターネットにより、人々のコミュニケーションはどう変わるのか」だった。

 たった四半世紀前まで、リアルタイムのコミュニケーションはフェイストゥフェイスしかなく、その補完として電話などが存在する程度だった。だから、「人と会わず、(メールやチャットを用いることで)会話もせずに、誰かと即時的なコミュニケーションが成立する」というのは、ほとんど革命的な出来事だったのだ。インターネットによるコミュニケーションの変化は、当時、ポジティブよりネガティブにとらえられることが多かったと思う。

 精神科医の斎藤環氏の著書「社会的ひきこもり――終わらない思春期」が刊行されたのは1998年のことだ。1990年代半ばごろから「引きこもる若者」の存在が徐々に社会問題化していった。誤解なきように書いておくが、斎藤氏は「インターネットが引きこもりの原因だ」とは指摘していない。ただ、「家から一歩も出なくてもコミュニケーションを可能にするツール」であるインターネットは、社会問題としてクローズアップされ始めた「引きこもる若者」の問題と絡められ、この点でも当時の大人たちにあまり肯定的には受け止められなかった。

 1980年代末に起きた連続幼女殺人事件の容疑者として逮捕された男は、引きこもりがちな「オタク(当時は「お宅」)」として報じられた。一審の東京地裁で死刑判決が出たのはWindows95が発売された2年後の1997年である。こうした事件(や報道)により、「オタク=引きこもり=インターネットと親和性が高い」という偏見が蔓延していった。

 エヴァが社会現象を巻き起こしたのは、「大きな物語の終焉」論が盛んに語られ、インターネットの普及と若者のコミュニケーション(の変容やオタク化)に関する議論が盛り上がっていた時期と、ほとんど重なる。

 だいぶ脱線したが、あの頃、エヴァの主題ついて、「人と人とは分かり合えないのだ」「家族や愛など偽りにすぎない」と私が解釈した背景には、そうした時代の風潮があった。恐らくそれは、濃淡こそあれ、多くの熱心なエヴァファンと同じだろう。

 俗に言えば「アダルトチルドレン」、やや学術的な言葉を用いるなら「境界性パーソナリティー障害」の特徴を色濃くまとった主人公シンジは、(受容的な)コミュニケーションを渇望するのに、まるで果たされない。それでもシンジには「人類を守る」というタスクが与えられ、何度も死にそうになりながら、何とかこれを成し遂げていく(成し遂げていくのに成長しないところがポイントだ)。

 さらに、シンジの周りにはレイやアスカ、ミサトといった多数の魅力的な女性が存在し、トウジやケンスケといった仲間たちにも恵まれる。現実社会で、自らのコミュ力に絶望している若者たちにとって、シンジは「あなたもそのままで大丈夫」という優しくて生ぬるいメッセージを供給してくれる自身の投影なのだ。「そのままで大丈夫」かもしれないことの信憑性は、オタクを自任する庵野監督の成功が、図らずも担保してくれてい(るように見え)た。

 だが、庵野監督はEOEで、そういうファンをバッサリと切り捨てる。EOEでは終盤、ネルフの「人類補完計画」により、すべての人々の心が解け合った世界が描かれる。これは精神分析の対象関係論でいうところの「自他未分化」の状態にほかならず、境界性パーソナリティー障害者の心性そのものだ。

 赤い海の波打ち際に取り残されたのは、世界中でシンジとアスカの2人だけだ。わかってもらいたいのにわかってもらえず、常に他人に怯えてきたシンジにとって、自他を隔てる「心の壁」が消えたこの世界は、ずっと望んでいたものであるはずだ。だが、いざそれが現実となると、「これは違う。違うと思う」と前言を撤回する。そして、今や唯一無二の「他人」となったアスカとコミュニケーションをとろうと試み、拒まれる。

 たった2人きりの世界ですらも、アスカは自分とのコミュニケーションを拒絶する。絶望したシンジは、泣きながら彼女の首を絞める。抵抗もせず横たわり、首を絞められていたアスカは、片手をそっとシンジの頬にそえる。結局、アスカにとどめを刺すことができず、泣き崩れるシンジ。アスカはシンジに胡乱(うろん)な視線を向け、「気持ち悪い」とつぶやく。そんな衝撃的なラストシーンで、物語は終わるのだ。

 EOEで庵野監督は、ファンを挑発するように「夢は現実の続き。現実は夢の終わり」という台詞もレイに語らせている。これらの場面を巡り、庵野監督はいくつかのインタビューで、「(オタクたちには)現実に帰れ」というメッセージを送りたかった、という趣旨のことを述べている。

 昨今はやりのライトノベルにたとえれば、「『さえない日常からある日、突然、異世界に転生し(シンジは没交渉だったゲンドウに急に呼び出されてエヴァに乗る)、思わぬチート(特殊な能力)に目覚めて敵をばったばったと倒し、美少女たちにもてはやされる』なんてことは、おめでたいファンタジーにすぎない。オタクどもよ、いい加減に目を覚まし、現実に向き合え」と作家が読者を恫喝しているようなものだ。当然、大きな物議をかもし、庵野監督は「オタクのくせに、同じオタクを食い物にし、あまつさえ侮蔑した、許しがたい裏切り者」として一部で激しく糾弾される。

 新劇場版は「序」「破」まで、テレビ版をほぼなぞった物語であることは先に述べた。この2作を見て、庵野監督の主題はオリジナルと変わらないのだろうと考え、逆説的だが、安心できたのだ。それが、「Q」ではまさかの急展開である。「これはもうエヴァではない」と私が感じた理由には、そうした下地があった。

 「他人と分かり合うこと」や「家族と愛」の絶望性・虚構性を描くのであれば、「主人公も知らないうちに14年間が過ぎていた」という設定は不要だろうし、ネルフと対峙するヴィレという組織の存在も物語を複雑にするだけだ。どうしても新たに訴えたい主題があるのであれば、まだわからなくもない。しかし、「Q」を見た段階では、「14年間」や「ヴィレ」を盛り込んだ理由がまったく理解できなかった。

 「Q」以降も、テレビ版をきれいに焼き直していけば、きっとファンはついてくるだろう。にもかかわらず、庵野監督はなぜ、こんな劇的に舞台設定を改めたのか。ひょっとしたら、奇をてらって物語を破綻させるという悪癖がぶり返したか、あるいは、確信犯でそんなセルフオマージュを企てているのかーー。この8年間、庵野監督の真意をはかりかねていた。

 今作を見た上で結論を言うならば、「14年間」にも「ヴィレ」にも、きちんと理由があった。劇場でスクリーンを眺めながら、「Q」の描写はそういうことだったのか、と何度も膝を打った。伏線が次々と回収されていく。エヴァを見て、こんなにカタルシスを感じたのは初めてのことだった。

 もちろん、例によって情報量が圧倒的に多く、すべてを理解できたわけではない。未回収の伏線や放置された布石、説明不足の描写もある。ただ、舞台設定を変えてまで庵野監督が訴えたかった主題は、くっきりと、明示的に、描かれていた。そこに、テレビ版やEOEを「粉飾」していた衒(てら)いはなく、ファンを揶揄する視点もない。僭越な言い方をすれば、庵野監督の「成熟」が、庵野監督の「身代わり」である登場人物たち(シンジだけではない)のふるまいを通して、直截的に伝わってきた。長い長い物語のエンディングを飾るにふさわしい、ウェルメイドな一作だった。

 テレビ版やEOEを手掛けた時、庵野監督は30代半ばだった。シンジの「14歳」は通り過ぎてきた道だが、ゲンドウの「48歳」はまだその先にあった。14年後、シンジは(14歳の姿のまま)28歳になり、ゲンドウは62歳を迎えたはずだ。庵野監督は今年、61歳になる。この25年間で、庵野監督はかつてのゲンドウの年齢に追いつき、追い越し、今やほぼ同世代となった。「角が取れた」という陳腐な表現は使いたくないし、実際、違うと思う。ただ、きっと、庵野監督の目に映る風景は、もはやあの頃とはだいぶ異なるのだろう。

 比べるのもおこがましいが、テレビやEOEに夢中になっていた当時、私の年齢もゲンドウよりシンジに近かった。それが今、還暦には至っていないものの、当時のゲンドウよりも年かさになっている。齢(よわい)を重ねるにつれ、かつては見えなかったものが見えるようになり、一方で、過去には見えていたものが、かすんで見えるようになってしまった。

 EOEの公開当時、自分の深いところにある情動を鋭利な刃物でえぐられたような気分になって、繰り返し繰り返し劇場に足を運んだ。それぐらいEOEの物語は私に刺さり、刺さったことが恐ろしくもあった。

 私はたぶん、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」をもう一度ぐらいは、見に行くだろう。でも、そこまでだ。

 若かった頃、「現実に帰れ」と揶揄されても諦められないほど、エヴァに心を奪われていた。その思いは今、穏やかな「好き」という感情に移ろっている。今日、スクリーンを見つめながら、そのことを自覚し、安堵とともに一抹の寂しさを覚えた。私はもう二度と、EOEに出会った頃のようには、エヴァの新作を見ることができないのだ。

 歳を重ねる、あるいは、長い時間が過ぎる、というのは、多分、そういうことなのだろう。緩やかではあるけれど、自分があの頃よりか少しばかり「成熟」したことの証なのかもしれない。

 新作のキャッチコピーは「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」だ。劇場を出ると、冷たい雨が降っていた。春は別れの季節でもあることを、ちょっと涙ぐみそうな気持ちのまま、私は思い出していた。


 


#TenYearsAgo #エヴァンゲリオン #劇場版  #エヴァ

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