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書籍「DD論」(橘玲著/集英社)
橘玲氏の最新本で、非常に興味深く読みました。
表題にある「DD論」の「DD」は、「どっちもどっち」を意味しています。
そしてこの本は、この「DD」をキーワードにして、世界で起こっている諸問題を考えていく内容となっています。
非常に示唆に富む内容が多かったので、
以下、半ば備忘録的に、長文となりますが印象に残った部分を引用します。
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◆引用1
DDは「どっちもどっち」の略で、双方に言い分があるという立場です。これに対して、「わたしが正義」だと主張し、悪を”糾弾”する立場を「善悪二元論」と呼びましょう。
善悪二元論の原理主義者は、自分たちの側(正義)に立つのか、それとも相手(悪)を擁護するのか、旗幟を鮮明にするようDD派に迫ります。それに対してDD派は、「世の中、そんな単純なことばかりじゃないんだよ」と反論するでしょう。
ささいな日常の諍いから国家間の戦争まで、なんらかのトラブルが起きると、わたしたちは無意識のうちに善と悪を決めようとします。その理由は、脳がきわめて大きなエネルギーを消費する臓器だというところから説明できるでしょう。人類の歴史の大半を占める狩猟採集時代には、食料はきわめて貴重だったので、脳はできるだけ資源を節約するように進化したはずです。
脳を活動させると大きなエネルギーコストがかかりますが、瞬時にものごとを判断すれば最小限のコストで済みます。こうしてわたしたちは、面倒な思考を「不快」と感じ、直接的な思考に「快感」を覚えるようになりました。これが、すべての対立を善悪二元論に還元して判断することが”デフォルト”になった進化的な理由です。
◆引用2
DD派は「冷笑系」とも呼ばれ、ネットでは「態度をはっきりさせろ」と批判されますが、世界は単純な善悪二元論でできているわけではありません。対立する当事者はいずれも、自分が「善」だと主張するのですから、第三者に善悪を簡単に判断できるようなことが例外なのです。ところが、複雑なものごとを複雑なまま理解するという認知的な負荷に耐えられないひとは、このことを頑として認めません。
さらに”不都合な真実”は、「解決できる問題はすでに解決している」ということです。わたしたちが対処しなければならないのは、解決がものすごく難しいか、原理的に解決が困難な問題ばかりなのです。
しかしその一方で、すべてをDD化(相対化)してしまうと、よって立つ基盤がなくなり、社会が液状化してしまいます。なにが正しいのかわからないような世界は不安で、ほどんどのひとは生きていくことができないでしょう。
このようにしてわたしたちは、DDと善悪二元論の間を振り子のように往復することになります。
◆引用3
ロシアとウクライナや、イスラエルとパレスチナが戦争に至ったのは、双方が「記憶」に囚われ、憎悪の応酬を抑えるDD化が不可能になったからでした。「和解」とは、一方が正義で、もう一方が悪になることではなく、双方がDDで手打ちすることなのです。
「記憶の政治」が行き着く先が戦争だとすれば、それを避けるには「忘却の政治」を受け入れるしかありません。しかし忘却を強制することは、犠牲者のアイデンティティの一方的な否定になってしまいます。このようにしてDDと善悪二元論は循環するのです。
だとすればわたしたちは、これからもDDと善悪二元論の微妙なバランスを取りながら、なんとかして社会の秩序を維持するよう、綱渡りを続けるしかなさそうです。この中途半端な結論に納得できないひともいるかもしれませんが、個人や集団、国家や民族、宗教の複雑な利害がからみあうこの世界は、本質的にDDなのです。
◆引用4
世界の暴力を研究したクリストファー・ブラットマン(アメリカの経済学者・政治学者)の結論は、「どのような理不尽な平和も、戦争よりはマシである」でした。
・・中国の新疆政策は欧米でも日本でも「人権抑圧」として強く批判されていますが、強権と監視社会化によって治安が維持され、ひとびとの日々の生活が成り立っています。
現代社会はますます複雑化し、いたるところで利害が衝突しています。
リベラリズムの立場では、公正な第三者の立場で暴力を検証し、中立的な司法機関で加害と被害の割合を決め、加害責任に応じた被害者への「賠償」を行うことで「和解」に導くべきだとされます。それに対して現実には、過度な責任追及は共同体の秩序を破壊するとして「忘却」による解決が好まれてきました。
しかし、「和解」も「忘却」も不可能なケースでは、どうしたらいいのでしょう。
私が新疆で目にしたのは、「抑圧」による平和の実現です。ウクライナやガザの悲惨な状況が日々報じられているなかでわたしたちが問われているのは、実現するはずもない空理空論を大きな声で唱えることではなく、「人権抑圧」と「戦争(内乱)」の選択肢しかないとしたら、どちらを選ぶかという重い問なのです。
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最後に、これはDD論とは少しズレますが、夫婦別姓について述べた興味深い記述がありましたので、これも引用します。
◆夫婦別姓に関する記述の引用
夫婦別姓については、最高裁はいまも合憲の判断を維持していますが、2021年には裁判官15人のうち4人が「不当な国家介入」などとして違憲の理由を述べており、徐々に外堀が埋まってきています。また労働者の待遇改善についても、「同一労働同一賃金」の原則が徹底され、合理的な理由がなく、たんに「非正規だから」「契約社員だから」などの理由で手当や有給休暇を提供しないのは違憲と判断されています。
日本社会の価値観も世界と同じくリベラル化しており、世論調査では国民の過半数が同性婚や夫婦別姓を支持していて、とりわけ若者層では8割に達しています。
・・日本は近代のふりをした身分社会なので、いたるところに先輩/後輩の序列と、正規/非正規のような「身分」が出てきて、敬語や謙譲語は目上/目下が決まらないと正しく使えません。しかしこれではどんどんグローバルな価値観から脱落し、「ネトウヨ国家」になってしまいます。
興味深いのは、日本では政治家がリベラル化の潮流をほとんど理解していないのに対して、司法が牽引して社会を変えつつあることです。これは法律家が、合理的に説明できないものを支持できないからでしょう。
同じ仕事をしているのに待遇が違うのはおかしいとの訴えに、「あなたの身分が低いから」とはさすがにいえないでしょう。同性婚を認めると社会が壊れるといいますが、同性婚を認めた多くの国で問題なく社会が運営されていることを説明できません。
・・世界の人たちがふつうにやっていることは、日本人だってできるでしょう。そういう常識に基づいて、合理的な社会をつくっていきたいものです。