「自分だけじゃない」と安心して「みんなでひきこもる」ことの弊害と「あなたは悪くない」の誘惑
クローズアップ現代「女性のひきこもり」の番組VTRは、私が夫と一緒にNHKのラジオ番組「みんなでひきこもりラジオ」を聴くシーンで締めくくられていますが、ここでも捏造と歪曲がてんこ盛りです。
ラジオを聴くことで「声を吐き出す場」があることを知ったり、夫に「思い」を理解してもらったり、月に一度の放送を生きるよすがとしていたり……。いったい誰の話をしているんだろう?
たしかにこの番組は、 “ひきこもり界隈” で絶大な人気を誇っているようだけど、正直言って、ラジオ番組にそこまでの効果があるとは思えないんですよね。クロ現の制作班が言うような効果はね。
一時的な癒しを得ることはあっても、それ以上の効果は期待できないし、するべきでもない。「みんなでひきこもりラジオ」を聴くだけでひきこもり状態から脱け出すことができる人なんて、はたしているんだろうか? きっかけになるかどうかも怪しいものです。
「みんなでひきこもっている」と「自分だけじゃない」ことに安心してしまい、そこから脱け出すモチベーションが低下しそうな気がします。
「ひきこもり」というラベルにこだわって当事者会や支援団体に頼ってみても、そこに囲い込まれるだけで、かえって停滞から脱け出せなくなるおそれがある。
それならいっそ「ひきこもり」とは無関係な場で、結果を顧みずに自分ができることをやってみたらいいのでは、と思います。
組織の一員になることも、誰かに受け容れてもらうことも諦めて、一人でコツコツ穴を掘るように、何かを続けてみればいいと思う。回り道のようでいて、その方がかえって早いかも。いつの間にか明るいところに出ているかもしれない。
最終的には本人が主体的に何らかのアクションに「打って出る」ことでしか、状況を打破できないのではないかと思う。「ひとりじゃない」という安心感を安易に求めるのではなく、「ひとりであること」を大切にしながら、主体的・自発的に考えたり、行動するしかないのです。
私の事例は個別的な要素が強いから参考にならないとか、恵まれているからだとか言う人は、いつまでたっても停滞したままではないかな。そうやって、当事者のアイデンティティーにしがみついているうちに、弱者を食い物にする人たちに狙われないとも限らない。
「生きづらさ」についても同様です。
そういう言葉で個人の問題へと矮小化するのではなく、かつて使われていた「社会不適応」という言葉を使って、社会問題として考えていかないと解決しないでしょう。
自分の内側を掘り進んでいってもキリがなくて、不毛なんですよ。自己責任論を手放して、外に目を向けないと。自分の置かれた環境や社会をよく見て、自分と社会の関係を問い直すことが大事です。
「あなたは悪くない」と慰められている暇があったら、その先を考えるんです。じゃあ誰が悪いの? 何が本当の原因なの?って、自分のアタマで考えてみることです。
「悪いのは自分、自分さえ我慢すればいい」という発想は、安易な逃避になり得るし、他者による支配や搾取を呼び込みます。それでもいいや、という人も多いでしょうけどね。自分で考えること、物事を批判的に見ることは、ものすごく大変だから。我慢してる方が楽なんですよ。
でも、それではひきこもりのまま終わってしまう。自己責任論の殻に閉じこもったままです。それが嫌なら、本気でひきこもりをやめたいなら、まずは「私は悪くない」と宣言することです。優しい顔をして近づいてくる人たちに、「あなたは悪くない」と言われる前に。
この際だから、「ひきこもり」だの「こもりびと」だのといった個人へのレッテル貼りは、のしをつけて送り返せばいいのです(あて先はNHKまたは任意の ”業界団体” へどうぞ)。
そして、「ひきこもり」を「社会的孤立」という概念に置き換えて、社会全体の問題にしてしまいましょう。「一人じゃない」「あなただけじゃない」とそそのかされて狭いところに押し込められていないで、外に出て世間の人を巻き込んでいくんです。
ひきこもりの定義とか、ひきこもりの本物/偽物とか、そういう些末で不毛な論争も、「社会的孤立」の名のもとに意味をなさなくなるでしょう。
私をひきこもらせているのは何か?と問うことが、突破口になります。誇り高く生きましょう。
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