年の瀬@東京
「今年を漢字1字で表すと何でしょうか?」
昨日のマインドセット会でもあったよくある質問だ。実は県の2年目研修でも聞かれた。その時は「婚」と書いた。今年の6月6日(令和6年)に結婚したからだ。しかし、なんであの時「結」にしなかったのだろうとふと思う。妻の名前入っている文字だし、色々な縁が結ばれた年だとか、うまく繋げられたんじゃないかと思う。「婚」にするあたりが今年の自分のチグハグな感じを表していてむしろいいのか。なんてくだらないことを考えながら文を進めていきたいと思う。
今年は「苦」の年だったと思う。うまくいかないことだらけで、クラスのことで涙することもあった(3回)。苦しさが自分を成長させてくれるのだろうが、苦しくて嬉しいはずはない。でも、年の瀬•東京はそんな苦しさを振り返る機会をくれる。ありがとう東京。
①現場での悩み
何が苦しかったのか、言語化しようと思う。
まずは5年生という学年に悩んだ。昨年度は2年生で、周りのサポートもありつつもうまく行った実感があった。もっと高みを目指そうと意気込み、準備した今年度だったが、6月くらいから子どもとの距離を感じた。5年生だからだろうかとか、男の先生だからだろうかとか、色々考えたが最後まで改善されなかったことを考えると、それが要因ではなかったようだ。その他の要因を挙げると枚挙にいとまがない。例えば、4.5月の段階で割と素直であるという印象を受けたため、教師の理想を多めに語った。その上で、できていることを真っ直ぐに褒め続け、できるよと励まし続けた。2年生ではうまくいったこの取組が5年生では通用しなかった。だんだんと褒めが上滑るようになっていき、私も怖くて褒めることが少なくなっていった。このような2年生と5年生のギャップに気付いたのが9月から10月頃で、その頃にはもう、噛み合ってないあの時間を取り戻すことができないまま今年が終わってしまったという印象である。
次にシンプルに教科の増加に苦しんだ。昨年度と同様週26コマという時数自体は変わらなかった(理科専科3時間ありがとうございます)。しかし、週の疲れは昨年度とは比べものにならない。毎日6時間授業で昨年度➕社会、家庭科、保健体育と教科が増えたからだ。特に、社会と家庭科は苦労し、学年主任の先生からたくさんアドバイスをもらいながら進んだ。それでも社会はつまらない時間になり、家庭科でできる作品も上手に作らせてあげることができなかった。子どもたちに申し訳ないと思う時間だった。そういった、1つ1つの授業の積み重ね、教師の自信のなさが子どもに伝わる時間が苦痛だったなぁと思う。
それから、悩みが多様化していくのも5年生なのだと感じた。自分の力で考えることができるようになる5年生では、1人1人の考えが違うことが見えるようになってきた。もちろん2年生でも1人1人の考えが違ったのであろうが、それを表出できなかったり、違うということを理解してなかったり、素直さが強かったりして、見えずらい部分だったように思う(それでも見てあげないといけなかったのだが)。その中で、何を揃え、何を任せるかというバランスにすごく悩んだ。そうやって接する中で、目的を共有することや自由と責任について確認することなどが大切なのだなぁとは学んだが、時すでに遅し。担任不信の子が出てしまった。その子には本当に申し訳ないと思う。
②悩みから得た概念的な理解
上のようにして悩む中でも、2学期の終盤にかけて繋がれたなと思う場面があった。悩みながら、変わりながら少しずつ5年生担任に近づいていっているのかもしれないと思えた。自分の中でできた概念的なものを言語化しておきたいと思う。
⑴実態に合わせる‥子ども1人1人が何に興味を持っているか、どのような状態なのかを知った上で、全体に対する言動を選ぶこと。
実態に合わせられなかったことを反省し、実態に合わせることがよりシビアに要求されるのが高学年だということを知った今年。実態に合わせるとはどういうことなのかを考えていた。県の2年目研修では、実態に合わせるとは、という問いに対して、「子どもの好きなものを知ること」と答えてくださった10年目の先生がいた。古舘先生のマインドセット会では「思いやりと指導技術」という言葉や「子どもから理想をみる」という言葉もあった。最近読んだ「空にピース」という小説の6年生担任は、不登校の子の家に通い、インスタントラーメンの作り方を教えたり、病院に付き添ったりしていた。確かに学年主任の先生は子どものことをよく語っている。面白かったこと、腹が立ったこと、子どもの家での様子などを事細かに語るのだ。「子どものことを知りたい」とか「この子のことは誰よりも知っている」とかそのような状態を目指していくことが、実態を知ることの一丁目一番地なのだろうと解釈した。その上で、その子たちが相互に関わっていく中で生じた問題点やよかった点について、大人としてのメッセージを子どもに伝わる形で届けてあげることが合わせるということなのだろうと思う。つまり、実態を知っていても合わせられないこともあるし、合わせ方の引き出しが多くあっても実態を知らなければ意味がないということであるのではないか。そして、これが『思いやりと指導技術』ということであり、『子どもから理想を見る』ということなのだと思った。
実態を知ることと合わせ方を知ることの両面をこれからも勉強していこうと思う。
⑵手をかける‥実態に合わせた上で、全体に合わせられない子どもに対して、支援を厭わない姿勢。
昨年度の初任研の指導教員に「手がかかる子には手をかけるしかない」という言葉をいただいた。手をかけるというのはどういうことなのだろう。教室にいるあの子に私は手をかけれているのだろうか。そう思うたびに心が痛くなる。学校は、児童数に対して10%ぐらいの教員が属する組織である。児童数と教員がその割合で配置される以上、全体で合わせる場面が必要であるという立場で話を進めていきたい。実態に合わせた完璧な言動を日々繰り返しているという事象と全員がスムーズに動けるという事象は必要十分条件にはないと思う。その反例として、子どもがわざとダラダラして気を引こうとしているという例が挙げられる。この場合その子に対してはいわゆるポジティブノーリアクションの対応をし、動き始めたときに褒めるというのが鉄板の対応であろう。とすると、実態に合わせた言動をした上でもやれない子ややらない子はいるというのは矛盾していない。その時、やれない子ややらない子にどのような支援をするか考え、実行し、結果を記録するというこの営みこそが手をかけるということなのかと思った。そう考えると実態に合わせるの中に手をかけるも入っていいのではないかと考える。全員に手をかける、全員を見捨てない姿勢が周りの子にもいい影響を及ぼすのだろうと思う。
⑶実態に合わせた先に何があるのか
書きながら考えていたことだが、実態に合わせ続けた先が全員のスムーズな動きではないとすると、実態に合わせることの価値は何なのか。実態に合わせることの必要十分条件とは何なのか。目先のことを考えると、不登校が減ったり、前向きな気持ちを持った子どもが増えたり、授業が活発になったりといいことが増えるのはわかる。でも、何のために実態に合わせるのだろうか、子どもの充実感を増やすことだけが教育なのか。とするとグルグルしてしまうので、まずはより良い人格が完成されるということで収めておきたい。「実態に合わせる」という言葉について研究してみたいなどと思った。
③今年の自己研鑽について
〈研修〉
①2月筑波公開(茗荷谷)
②3月スタプロフィナーレ(小田原)
③3月マインドセット会(神田)
④6月筑波公開(茗荷谷)
⑤けてぶれラボ(オンライン全6回)
⑥学級開きリフレクション(オンライン全4回 実践発表2回)
⑦CEC Aomori(八戸2回 実践発表1回)
⑧マインドセット会(オンライン全4回)
⑨市の研究授業(算数)
⑩マインドセット会(秋葉原)
本物に触れる機会がたくさんあった今年だった。その一方で読書量が減ったり、アウトプットが減ったり、学級通信でも文が進まなかったりと、頭でっかちになった自分に気づき自信をなくした1年でもあった。来年も、インプットを欠かさず、また自分の中でも少しずつ経験を積み重ね、概念を言語化して成長していきたいと思う。
年の瀬・東京から文を進め、気づけば12月31日だ。今年は妻の実家である福島で年を越す。来年が飛躍的な1年になる可能性は少ないが、飛躍的な時に向けて、粛々と経験と言語化を積み重ねることを誓う。