アンナ・カレーニナが凄すぎた。(前編)
大変な幸運を授かりシアターコクーン「アンナ・カレーニナ」を観てきました。宮沢りえ主演です。めちゃくちゃ、めちゃくちゃ素晴らしかったです。もちろんそこまでたくさん演劇を見てきたわけではありませんが、ダントツの一位です。そうして僕がこれまで人生の中で接してきた「ART(Fine Artから建築から工芸からデザインから美術館から映画から能から祭りから本から落語から全て含む)」の中でもおそらく10位以内にランクインすることは間違いない、そのくらい素晴らしかったです。
もちろん宮沢りえ
まずはやはり宮沢りえから語らないわけにもいかず、その圧倒的な表現力と佇まいだけで彫刻のような美しさは圧巻でした。アンナは原作でも一目惚れしてしまうくらいの美女として描かれているわけですが、原作そのものの美しさだと感じました。そうして息子セリョージャに接する母としての表情、ブロンスキーに対する女性としての仕草、夫カレーニンに対する憎悪と自責、そうしてそれが入り乱れる女としての狂気と悲しみ。客席と舞台の距離を持ってしてもその細かい機微が伝わってくる凄さに本当に大女優なんだなあとずっと感激しておりました。
また衣装が良い。共演が良い。
とにかく19世紀後半帝政ロシア時代の衣装が素晴らしいです。男性陣の衣装はちょっと安っぽく感じたのですが、実際帝政ロシア後期の貴族なら実際もああいった虚勢を感じさせる服だったのではないかと思いました。しかしアンナの衣装はどれをとっても素晴らしかったですし、キティの土居志央梨も可愛く、ドリーの大空ゆうひもすごい存在感でした。大空ゆうひさんって僕は知らなかったのですが宝塚出身の方なんですね、どうりで屹立したシルエットの美しさ、納得いたしました。
もちろんカレーニンの小日向文世、スティーヴァの梶原善は(二人とも僕の大好きな役者でもあります)少しの違和感もなくその世界の住人としての風韻を漂わせながら、語りとその人物像の厚みで僕の胸を抑えつけてくる感じでした。
しかし原作でもそうだけどちょっとカレーニンかわいそすぎる。小日向文世はあの優しくて物悲しい目が好きなんだけど、それがカレーニンの孤独や悲しみをひしひしと訴えてきて苦しかったです。いやカレーニン不器用なだけでなんも悪いことしてないよね?って同情してしまった。
ちなみに原作を読んでいる間はオブロンスキー(劇中ではスティーヴァなんですが小説ではほぼオブロンスキーなんでどうしてもそう書いてしまう)って森元首相のような大柄で隙だらけのイメージだったのですがもはや今読んでも梶原善でしか人物が動かなくなりました。そのくらい強烈な印象というか人物像を残してくれました。
で、本題です。
「アンナ・カレーニナ」は文庫本でも上中下、1500ページを越える大作です。ドストエフスキーはこの作品を「芸術上の完璧」とまで呼んでいる、そんな物語。
圧倒的な描写とリアリズム。まあ簡単に「リアリズム」と言ったけれども実は僕らは19世紀の帝政ロシア、ペテルブルグの街並みや田園風景を「リアルに」知っているわけではなく、それは映画や絵画からの想像でしかないわけですし、しかも東洋人の我々が日本語に訳したものを読んでいるわけですから、本当の意味での「リアル」ではないかもしれないです。しかしそれでもなお小説の中の活字を読むだけで人物の動き、喜び、苦しみ、を感じ、ロシアの風景を「美しい」と感じてしまうこのトルストイの文筆は神がかっていると思います。ちなみに僕の読んだのは木村浩訳の昭和47年のもの。言葉が少し古いのだけれどもそこがまた良いのです。
そんな大作ですから、もちろん場面はペテルブルグからリョーヴィンの田舎、スティーヴァの家やモスクワの駅、カレーニンの家から舞踏会、競馬場やイタリアの田舎やオペラハウスまで縦横に切り替わります。もちろん小説であれば一言書き加えるだけで場面は切り替わるのですが舞台はそうもいかない。貴族の社交界と田舎の対比も物語の中の重要なファクターであるためその空気感を排して抽象的に進めるわけにもいかない。
舞台美術どうなっているのか?どう進めるのか?大きな美術の切り替わりをやっちゃうと舞台は時間が止まってしまうからそれもできないだろうし果たしてどうするのか?が、僕の中での重要な関心事でありました。
予想を遥かに超えた美術と演出。
入場した時から既に幕の開いた舞台の上には四段ばかりのひな壇があり、そこにはロココ調の椅子が15脚ほど、あとは簡素なダイニングチェアがポツポツといくつかの金色のマトリョシカの形のオブジェとともに置かれていたと思います。
左奥には生演奏のためのピアノがあり、その前には子どもが寝るにしても小さすぎるベッド、右側には大きすぎる食器棚のようなドールハウスとその前にはベビーベッド、また大小の木馬が3基散らばっておいてあり、上部には天井の見えない金箔の下り壁が見えていました。
いよいよ舞台が始まると、そこでいきなりノックアウトされるかと思いました。
舞台は小説と同じくスティーヴァの家からはじまります。しかし、演劇が始まるのと同時に舞台にはほぼ全員の人物が出ていて、ひな壇の上の椅子に腰掛けたのです。その最初の絵が圧巻。スティーヴァの家で話が進みながらも無表情で宮沢りえも最早登場しており正面を向いたままひな壇に座っている。他の人も皆同じようにひな壇の椅子に腰掛けている。
ドールハウスも木馬もベッドもこれから登場する(もう登場しているんだけれども)人物と一切重ならず、その群像の絵をいきなり見せてきたのでした。
「パン・フォーカスだ」と思いました。
パンフォーカスとは被写界深度を深くすることで手前のものから奥のものまでピントが合うようにする撮影方法で、黒澤明が好んで使っていた撮影法です。
周りをボカして被写体を浮立たせるのではなく、全てが見えるようにした上で演技こそが役者を際立たせることができると黒澤は考えていた訳で「カメラが芝居するな!」という名文句もその信条から生まれたものであります。
もちろん舞台で、レンズを通して見ている訳ではないので「パンフォーカス」というのはおかしな表現です。でもそうとしか言えない自分がいました。
僕ら観客は、舞台の隅々まで見ようと思えば見れます。実際舞台中央のひな壇に老婦人と並んで腰掛け無表情で宙を見ている宮沢りえに何度も目がいきました。しかし目の前に起こるドリーの部屋の事件。ひな壇にいる無表情な登場人物たちとは違って、僕らはその眼前の物語にぐいぐい引き込まれていきます。
「ああ、このひな壇はモスクワなんだ!」「舞台全体が社会、世界なんだ」と気付きました。大勢の人が人生を送るメタ視点を背景にオブロンスキーとドリーの家の話が進む。積層し並立する様々な社会と家庭と人を最初の数分で一気に飲み込ませてしまう宗教絵画のような荘厳さを持ったその演出・絵作りに圧倒されて、初めの数分、なんの話も進んでいないのに涙が出ました。
これが「舞台」という「表現」なんだ。
アバターとか、CG満タンでつくった映画世界に辟易しておきながら、自身もこの物語の場面の切り替えをどうするのか?と平凡にしか想像できていなかったことが恥ずかしく、なんとも低レベルであることを感じました。
小説の言葉を見えるものにする。書いてある通りのものを作ればそれはそれ成立します。けれどもそれは多くの場合「説明」ではあるけれども「表現」ではない。
ロシア語を日本語に変換するだけでも大変なのに、トルストイを「表現」として視覚化させるその力量は僕にとっての事件でした。
舞台が進む中でも、決して舞台は大きく変えず、その徹底された配置と人物の動きによって全体の「絵」「世界」は生まれていきました。役者自身が椅子やテーブルを持ち運び再配置することで新しい絵・シーンが生まれ、物語が続く。役者にズームインした室内は徐々にズームアウトしドールハウスに見えていたものが邸宅の遠景となる。ドリーの子どものたちの木馬は競走馬にも馬車馬にも変身する。
一つしかない舞台の上で「説明」することを完全に放棄し、さまざまな「見立て」による情景を構成しそれを観客の心で補完させることで「リアリティ」以上の精彩を全体に与えているのです。またこのすごいのは、これが「表現」と言いつつ「現代アート」で見かけるような独りよがりの放出ではなく、ちゃんと娯楽としての「感じる」を見落としていないところです。もちろんある程度の教養は必要ですが、「アーティスト」のように説明文を読まないと何がアートかわからないようなものではなく、舞台から伝わる漠然とした面白さを多くの人が直感的に捉えることができるものになっているというところにも感動しました。
小説の中の一番好きな場面。
小説の中で一番好きな場面は、リョーヴィンが自分の領地の草刈りを農民と一緒に行う場面です。僕の文庫本で行けば中巻の初めの方。10ページほどに渡ってのリョーヴィンと農民の労働で、陽の光や刈られてすぐの草の匂い、大粒の雨や美しい小川が眼前に広がるかのように軽やかに描かれています。
木漏れ日や川のしぶきや子供の笑い声が聞こえてくるようなこの昼食のシーン、なんともパン汁もうまそうで(実際やったら美味しくないと思うけど)すごく好きでした。
ただしかし、このシーン、全体的なリョーヴィンの人物像形成には確かに必要なんですが全体のストーリーには全く干渉しない、言ってしまえば無くても良いシーンです。ただただその五感に響く描写が美しい。トルストイも描きたくて書いただけなんじゃないかと思うくらいのシーンです。
今回の舞台、1500ページの小説を3時間40分にまとめるわけですから実際に入り切らない人物やエピソードは大幅にカットされています。しかし、僕の好きなこのシーンは、パン汁は、数分だったとは思いますがとても印象的に絵画的に描かれておりました。実は小説の中ではリョーヴィンがただ楽しんでいるシーンではあるのですが、舞台の中ではリョーヴィンが百姓と作業をすることで他の都市生活者とは違う「地に足のついた」人間として確立したことを感じさせるシーンになっていました。
このシーンの挿入と構成に唸らずにはいられないのと同時に、演出家のアンテナと僕自身の思考が重なっている感じがして、なんだかとても嬉しかったのです。
まだまだ書きたいことがあるのですが・・・・
とても長くなってしまったので今回はこの辺で、前編後編に分けることにしました。後編では本演劇の演出家「フィリップブリーン」と舞台における表現と認知について僕なりにもう少し深掘りしてみようと思います。