ザ・メニュー
非常に面白かったのですが、後からじんわりと落ち込んでしまった。
なかなかすごい映画でした。ようやくアマプラで配信で見たのですが。
映画自体のあらすじとかはいくらでもあると思うので置いておきます。
ともかくレイフ・ファインズが良いし、ニコラス・ホルトって見たことあるけど誰なんだと思ったらウォーボーイズのあの人でした。このニコラスホルトの変人ぷりもかなり良いです。
招待客11人がつくる世界
・富豪の老夫婦(2名)
・ITかな?関連の成り上がり若者金持ち(3名)
・ハリウッドスターと秘書(2名)
・有名料理批評家と雑誌編集者(2名)
・ニコラスホルト
・アーニャテイラージョイ
作中では「招待客は12人」と言っていた気がするんですが、数えてみると11人。も多分母親を入れて12人なのでしょう「シェフが招待した12人」と考えると母親を入れるべきなのでしょうね。
ここでの一食・コースの中で次々と事件が、というのがこの映画の中身です。
「高いメシ」とはなんであるか?
・富豪の老夫婦(2名)・・・・・・・・・・・・どちらかというと日常
・ITかな?関連の成り上がり若者金持ち(3名)・成功のシンボルとしての美食
・ハリウッドスターと秘書(2名)・・・・・・・スターとしての立ち位置
・有名料理批評家と雑誌編集者(2名)・・・・・(上からの)評価する対象
・ニコラスホルト ・・・・・・・・・・・・・・憧れ・羨望
・アーニャテイラージョイ・・・・・・・・・・・どうでもいい
できるだけ平易に書いてみたのですがこんなところでしょう。
で、ここで思うのが「お金を持っている人」と「メシ」の接点です。
どう考えてもニコラスホルト(タイラー)以外で「美味しいものを食べたい」という「本能的な欲求」からこのレストランに来ていない。それ自体が普通に考えると異常な気がします。
けれども僕らはこんな世界で生きているのだと、思わざるを得ない。
もちろん抜け出せないクリエイターのいる場所。
僕はものづくりの世界の中では非常に恵まれた環境にいる方ではないかと思います。それでもやるせない目に会ったことは何度もある。
ウチの製品は高いって言われて買わなかったくせに外車やら高級家具やらピアノやら「わかりやすい高いもの」が詰め込まれた豪邸とか、名刺を何度渡しても全然名前覚えてもらえなかったのに「ななつ星」のテレビ見た途端に「ぜひお会いしたい」と連絡もらったり。
しかしまあ、やるせないと思っても、やらないといけない。それが僕が社会に生きるための「仕事」であるし「場所」であるから。
しかし富裕層、いわゆる「持つもの」が本当に欲しいものがなんであるか?ものづくりの「もの」ではないのではないか?と疑わしく思ったことは何度もあるのです。
リルケの言葉
ライナァ・マリア・リルケの著書、というか没後リルケの手紙を編纂した本で「若き詩人への手紙 若き女性への手紙」というものがあります。
その最初に、詩人を志す青年へリルケが宛てた手紙にこのような言葉がありました。
冒頭で、なかなかキツい言葉です。
それは僕自身も「外からの評価」の上に自分自身のクリエイトが成り立っていると認めざるを得ないからです。
金を持った人間が「日常」や「成功のシンボル」や「スター」の「他からの見え方」を補完するために「美食ができる」というステイタスシンボル、見えやすい評価軸があるように、僕のような「提供者側」の人間も、「どのように見えるか」「どう思われるか?」という外的な評価軸からは逃げられていないからです。
もちろん社会の中にあって経済活動をする限りこの「評価」からは逃れられない。リルケのような自身の深いところにある追求は自身しか知り得ないから、知らないものは買えないわけで、社会に生きるものとして日々ご飯食べていかないといけないんだから「外に目を向ける」ことは必然です。
しかし、やはりモヤモヤしていることは少なくなくて。おそらくものづくりに関わるほとんどの人たちが、僕と同じモヤモヤに日々悩まされているのではないかと思うのです。
そんなこんなで「ザ・メニュー」に戻ると。
招待客の11人はお金持ちであるということに加え、ステイタスであったり、クルーザーであったりと、この映画は世の中にある「評価」を11人に割り振って非常にわかりやすく象徴化しています。
そうしてレストランとシェフ、スタッフも「最高に評価されたもの」として存在し、「評価に値する食とサービス」を提供するわけです。
しかし、先に書きましたようにここには「美味しいものを食べたい」という「根源的な欲求」が存在せず、また実は「美味しいものを食べてもらいたい」という愛情も不在なのです。
すべての「評価軸」が根源的な欲求からずれている。
これはまさに現代の膿の部分であるよなあと。ブランド自慢はもとより、自分を売ることに必死でデッサンはろくにできてないとかコンセプトだけで使いにくい建築とか見栄えだけで食べにくい料理とか、それが、そんなもののはずが他人の評価により成立してしまう。もはやそれが当たり前なのが現代なのだと。
「チーズバーガー」という救い
この映画の核のひとつは、僕やおそらく多くの人が抱える現代の「評価社会に対するモヤモヤ」が頂点に達した時にどうなるか?を表現したものだと思います。
「美味しいものをつくる」から「最高のシェフになる・見える」にどこかから歪みズレていったこと。
「お金という対価を払えばいい」という世の中に対する復讐だけではなく、自分自身も「美味しいものを食べてもらいたい」という愛情を忘れてしまっていたことに気づいてしまったことが、この結末を産むのだと思います。
その証拠に、チーズバーガーを作るときだけ、シェフは優しく微笑している。
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