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銀座はザギンではない

銀座といえば彦根銀座しか知らなかった俺が今、銀座でとんかつを食べている。のぼりつめたといえる。

幼少の頃より、「銀座のことをザギンなどという大人にはなるな」と両親にはしつこく言われたものだが、いざ本物の銀座通りを歩いてみるとその意味がよくわかる。

この街は俺が容易くひっくり返してよい街ではない。思い返してみると、これまで出会ってきた人のなかにも銀座をザギンと宣う人が何人かいたが、悉くそれが滑稽であった。銀座をザギンと呼ぶには資格がいる。その資格をひと口では簡単に説明できないが、あの銀座通りを一度闊歩すれば、その資格を体感でき、体感したうえで俺にはその資格がなく、これまで出会ってきたザギンちゃんたちにもその資格はなかったのだと知る。

人は不釣り合いなほど大きく、敵わないと知ったモノに対して畏怖のあまり過小評価をしてしまうことがあるのではないか。己の小ささを認めたくないがために畏怖の対象を一段二段下げることにより、己の面目を保とうとする、そういった心持ちが銀座をザギンと言わしめてしまうのだが、それは己が高みに上ることを妨げる所作にほかならない。向上心を打ち消す行為なのである。我が子がまっとうに成長することを願うからこそ、両親は「銀座のことをザギンなどという大人にはなるな」と俺に言い続けたのだろう。

それは「身の程をわきまえろ」というメッセージでもある。身の程を知らなければ謙虚さは芽生えず、謙虚さがなければ向上心は生まれない。銀座をザギンと宣うことにより、人は身の程知らずとなり、謙虚さを失い、果てに向上心を殺してしまう。むしろ、そうであるからこそ銀座をザギンと呼んでしまうのか。どちらにせよ、銀座をザギンと呼ぶには資格がいるが、資格があってもそんなことをする必要はない。

いつもお世話になっており、今回の東海道新幹線運休につき、急遽宿を手配していただいた、今隣でとんかつを食べているH氏はまさに数少ない銀座をザギンと呼んでもよい人だが、そんなことをしない。その姿勢を見習いたいと思いつつ、どうせ俺みたいなもんはザギンザギン言いながら調子乗ってるくらいがちょうどええ雑魚でいるほうが楽なこともわかっている。つまり、「銀座のことをザギンなどという大人にはなるな」というのは、わしらの子供レベルのおまえみたいなもんは楽なほう楽なほうへ転がってしまうんやから、そういう態度は序盤で堰き止めておけよ、という教訓だったのではないかという気がしている。

それにしても銀座のとんかつは美味かった。
この美味さを知った分、俺は少しだけ銀座をザギンと呼べる人に近づけたわけだが、油断をすればこんなものはすぐに遠のいてしまう。常に背筋を伸ばし、勉学を怠らず、他人を見下さず、そうやって生きることにより、やがて俺は銀座通りを物おじせずに歩けるようになるのだろう。銀座はザギンではなく、銀座なのだ。

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