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雑談とは
雑談って何だろうか。
●とりとめのない談話をすること。よもやま話(『岩波国語辞典第八版』)
●はっきりした目的やまとまりのない話。世間話(をすること)(『三省堂国語辞典第七版』)
●はっきりした目的もまとまりも無い話(を気楽にすること)(『新明解国語辞典第八版』)
●気楽にとりとめのない話をするこた。また、その話。(『明鏡国語辞典第三版』)
いやぁ、国語辞典って面白いですね。まったく同じ解説をしていることがまずありません。「雑談」に関しては「とりとめのない目的もない気楽な話」という感じでしょうか。
どうして雑談について調べたかというと、今日の日経新聞の文化面に歌人で作家の東直子さんのコラムが掲載されていて、そこに雑談について書かれている箇所があったからです。引用します。
「人は雑談をしながら、人が何を考えているのか、世の中でどんなことが起こっているのかを知り、自らの考えを検証し、やり方がまずいと気づけば修正する。生きるためのコツのようなものを、なんとなく得ているのだ。雑談でしか学べない学びもある。」
↑上記「」内引用。
面白い!雑談には確かにそういうところがある!決して雑談は「とりとめのない目的もない気楽な話」なだけではないのです。東直子さんの言う「雑談」が好きだ。だがしかし。残念ながら現実は、こういう雑談ばかりではない。
よくあるおっさんの雑談は、雑談をしながら、自分が何を考えているのか、自分の中でどんな解釈が起こっているかを伝え、自らの考えを反芻し、やり方が正しいと確認すれば押し付けるのです。
僕はそういうおっさんの雑談が大嫌いで、本当にその場にいるのが苦痛で仕方ないのですが、どうして苦痛なのか、いまいちわかっておりませんでした。東直子さんのコラムを読み、雑談の本来の味わいを確認し、普段僕が受け入れるしかないおっさんの雑談がどうして苦痛なのか、が、よく理解できました。今日、僕は東直子さんのコラムを読むことによって、生きるためのコツのようなものを、なんとなく得ることができたのです。雑談じゃなくても、こうして読書でもそれを得ることができます。
おっさんの雑談のタチが悪いのは、こちらが立場的に弱いことを無意識に利用している点にあります。おっさんが「強い」僕が「弱い」。その事実を振り翳したうえで「雑談」を繰り広げるのです。その雑談は聞きたくもないのに午前中から聞こえてくる選挙演説のようなものです。中学生になったのび太が空き地で野球しているジャイアンたちに偉そうに説教する話が『ドラえもん』にありましたが、おっさんのやってることは、まさに、あの時の中学生になったのび太なんです。恥ずかしいこと、このうえない。にも拘らず、おっさんは普段からものすごくカッコつけで、カッコ悪いことは死んでもやりたくないなどと声高に主張していたりします。自分のことというのは、自分ではちゃんと見つめることはできないようです。
身の回りにそういうおっさんが多いんです。それは恐ろしいことです。僕は42歳、僕もおっさんですが、僕がおっさんと書いているおっさんは僕より一回りほど年上のおっさんです。何が恐ろしいかいえば、僕もあと12年ほど経てば、ああいうおっさんになっているんじゃないか、ということなんです。自分より弱い人間を見つけては、自分の主義主張の正しさを主張し、少しばかり自分のなかで「ほんとうに僕の主張は正しいんだろうか」と疑問に思っている理性さえもひっくり返し、その己の態度について快感を覚える、というような、そのようなおっさんに、僕もなってしまうのではないかと怯えているのです。僕が新聞を読みあさり、読書に耽るのは、兎にも角にも、あのおっさんたちの存在が、恐ろしくて恐ろしくて仕方ないからであり、この恐怖故に様々な知見を得ているという点においては、あのおっさんたちにはつくづく感謝申し上げねばならず、そうだとするならば、そういうおっさんに僕自身がなるということは、実はそんなに悪いことでは無いのかもしれないなどという、糞つまらない結びでこの文章を終わろうと、刹那でさえも、思いついてしまった僕を呪ってやりたい。
あんなおっさんどもになってたまるか、という思いを胸に、明日からも暮らしていきたい。
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