短編小説『我慢の限界』
阪急西院駅を下車した頃から異変には気づいておりましたが、気づいていないフリをしていたのです。それが最善の策と判断したからです。もう、どうにものっぴきならないような状況に陥ってしまった時には、下手に解決のため奔走するのではなく、むしろ、何も私は存じ上げておりません、と、無関係をきめこむのが実はいちばん賢いのです。しかし、無関係をきめこんだために私は大きなミスをおかしてしまいました。私の出る出口とは反対の出口には、トイレがあるのです。ちゃんと自らの状況と向き合っておけば、私は、たとえ遠回りだとしても、反対の出口のトイレに駆け込んだのです。無関係を装うことにより、取り返しのつかなくなる、ということもあるのです。いいえ、取り返しがつかなくなるかどうかは、まだ、私次第です。賽は私が持っていますって使い方、正しいですか。もう冷静ではいられません。西院駅のホームから改札口へ、本当はエレベーターを使いたかったのですが、こんな時に限って満員です。一歩ずつ一歩ずつ、階段をあがるたびに、昔馴染みのあいつが、昔馴染みのくせに今回初顔合わせたるあいつが、分を弁えずに出てきそうになります。苦悶の表情を画像検索したら、秋山準の執拗な膝攻撃に耐える小橋建太(あの頃はまだ健太だったか)の顔と一緒に今の私の顔が出てくるはずだ。ああ、私が有名人だったらなー。いや、違うからよかったのか。もうよくわからないが、なんとか改札を抜けた。昔馴染みのあいつは、まだ改札を抜けられずにいる。ふふふ、みくびるんじゃあ、ないぜ。
赤信号が嫌いだ。向こうに渡りたいのに。下手をすれば、この数分の待機が命取りになる。私は駅出口すぐのところにある信号を諦め、右にしばらく歩いたところにある、御前四条の交差点まで歩いていった。早く辿り着いて赤信号を待機するくらいなら、ゆっくりと歩を進め、ジャストタイミングで青信号を悠々と渡りたかった。どっちでも同じはずなのに、待つのが長いのは許せないものなのだ。尻が震えているような気がする。もうダメかもしれない。あきらめたらそこで試合終了ですよって安西先生は言ってましたが、あきらめようがあきらめなかろうが、抗い難い運命はある。根性だけでどうにかなることなど、実は些細なことでしかなく、その些細さに賭ける無垢こそが尊いだけなのだ。
御前四条の交差点を北上する。ゆっくりとしか歩けない自分を俯瞰してみると、情けなくて泣けてくる。できれば目立たずに歩いていたい。私は南北を貫く大きな御前通りを一筋、右へ入り、名前も知らない細い通りを北上して家を向かうことにした。危ない。実に危ない。海外旅行なら渡航禁止レベルになっている。じっとしていれば、刺激を与えずにいられるから幾分ましなのだが、根本的解決にはならない。一歩一歩踏み締めながら歩いていく。みりみり、みりみり、みりみり、みりみり。穴が悲鳴をあげたがっているが、穴は世間体を気にして必死に堪えているらしい。長年連れ添った夫を亡くした若妻が涙を堪えているのに似ている。いや、そんなものではない。はからずも早く逝きよったおかげで遺産が入りまくってくる喜びを堪えて泣いている若妻のような感じだ。
目の前には、白髪のおっさんが一人、そのおっさんの前で私を塞ぐようにして少年がキャッチボールをしている。絶望。御前通りを歩いておけばこんな邪魔は入らなかった。と、白髪のおっさんが私に気づいて少年たちを避けさせた。老害などという言葉が蔓延るなか、なんという物分かりのいいおっさん!意気に感じた私は賭けに出た。走ることにしたのだ。刺激が大きくなる分、危険は避けられないが、一歩一歩踏み締めていくよりも、可能性が見える。虎穴いらずんば虎子は得られんのだ。しかし、虎の穴のことを考えている余裕が私の穴には無い。私の虎子がもう檻から出てきそうなのだ。駆ける。風が汗を撫でる。冷たい。私はこのまま、風になりたい。あくまで平静を装い、白髪のおっさんと少年二人の間を通り過ぎる。
「ああ、ありがとうございます、そんな急いでいただかなくても。ゆっくり歩いていってください」白髪のおっさんが申し訳ないという風に私に声を掛けた。キャッチボールを止めさせてしまったのを悪く思った私が急いで通り抜けようとしていると勘違いしやがったのだ!嗚呼、私は、私は、この白髪のおっさんの意図を覆すほど夢の無い人間ではなかった。その程度にはロマンチストであった。私は、私は、白髪のおっさんと二人の少年の期待を一心に背負い込み、憤怒とも悔恨ともつかぬ如何ともしがたい感情を押し殺し、風になることをやめた。白髪のおっさんと二人の少年に見られないよう、決して振り返らずに苦悶の表情を浮かべた。もう、いつワインのコルク栓を外したときのようになってもおかしくなかったが、パシンパシンと少年がボールをグローブで捕る音に意識を集中させることで、最悪の事態を免れた。あの白髪のおっさんが、もう少し、思いやりに欠ける男だったなら。私が、もう少しだけ、人の優しさを反故にできる勇気を持ち合わせていたら。人生において、とても大切なことを教えてもらった気がするが、一歩足を進めるたびに、そうした状況にはそぐわない、間抜けな空気の音がする。
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