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気をつけなければならないこと

 コロナ禍以降、文芸誌の新人賞の応募が増えたという新聞記事を読みました。私もその一人。つくづく私という人間は一般的なのだ。変わったことをやったつもりが一般的の殻の中で
遊んでいるのだ。何かに秀でるわけでなく、特筆すべき才能もないくせに、いまだに自分は特別なのだと思い込んでいる。そのくせ、自分の能力の限界にも薄々気付いている。将来に漠たる不安を抱えており、怖くて怖くて仕方がない。小心者のくせに大きな声を出したがる。似たようなことをやる大人を軽蔑するのは、そこに自分の欠点を見るからだ。欠点をなるべく表に出さないようにしているだけで表に出してしまう人たちと本質的には変わりないことに絶望する。

 そんな絶望の中にあっても私を必要としてくださる方がおられ、その期待に応えるべく、頑張った一年でもあった。ご縁が重なり、大阪や東京で仕事をする機会を得、たかだかその程度のことで私は世界の広さを感じるようになった。交通系ICカードを使うようになった。頑なに使わずに生きてきた私だったが、いまや無いのが心もとなくなった。慣れというのは恐ろしいものだ。これまで何度か書いているが、かつて上司が「スマートフォンがあれば無人島でもいきていける」と言ったことがある。むしろ、それは「スマートフォンが無いと無人島で生きていけなくなった」のではないかと思ったものだ。

 恐ろしいのは絶望にも期待にも恩恵にも慣れてしまうことだ。深い絶望にあっても生きていけるが、その深い絶望の深さを感じられなくなることは、全身麻酔を打たれた状態で殴打されても痛みを感じないのと同じなのではないか。期待や恩恵に慣れてしまうと信頼を失いかねない。気をつけなければならない。気をつけすぎるということはない。

 気をつけなければならないのは、時代の変化に対してもそうだ。時代の変化にはしがみついていかなければならない。先日、大黒摩季の「あなただけ見つめてる」の歌詞を改めて読んでみたら「まじか」と思った。この驚きこそが時代の変化なのだ。Classの「夏の日の1993」にも同じ驚きがある。ホフディランの「スマイル」も今聴くと厳しいものがある。ロシアのウクライナ侵攻のせいで「遠距離恋愛は続く」の歌詞も見ていられなくなった。この違和感を正しく抱けるようにしていかねばならない。

 先日ラジオで「錦市場のあたりは年の瀬、混雑するから買い物は荷物が多くなるので車で来たい気持ちはわかるけど、やめといたほうがいいし、電車やバスで移動して彼氏さんとか旦那さんとかを荷物持ち要員として連れてきたほうがいい」といったことを言っているのを聞いて、これもやはり私は「まだ買い物は女の役割っていうのが前提なのか」と驚いた。こういう違和感には、敏感でいなければならない。

 学ぶことを止めたとき、きっと違和感を抱くことがなくなるのだろう。世の中に違和感がなくなった時、私は絶望すら感じなくなるだろう。そのほうが何倍も恐ろしい。

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