太陽日記 令和二年四月十六日
ライブハウスや劇場、
映画館への支援が広がっています。
新型コロナウイルスの
感染拡大のため、
文化芸術が生まれ育まれる場所が
苦境に立たされています。
常日頃、
お世話になっている場所です。
普段足を運んでいなくとも、
文化芸術の拠点とあらば、
それはお世話になっているような
ものでありましょう。
できる限りの支援をしたいと
願い気持ちは当然のことながら
私にもあります。
しかし、
問題があります。
私の収入には限りがあるのです。
限りある収入のなかで、
支援をしようと思うと、
支援対象を選ぶことになります。
これが私はとても苦しい。
どこにだって助かってほしい。
その気持ちは
お世話になっているとか、
知ってる知らないとか、
関係なく、
すべての場所に
そういう気持ちがあります。
そのうえで、
顔が見える場所ならば、
なおさら力になりたいと
思うわけですが、
私だって長年、
京都に住んでいますから、
顔が見える場所は
それなりに存在します。
その全てに対して、
少しでもこんな
私のようなものの微かな力が
役に立つのであれば、
とは思いつつ、
やはり、
どこかを選ばないといけません。
選ぼうとすると、
「どこにしようかしら」と
考えることになります。
これを考えている時間が
とても苦しい。
熟考したうえで、
支援(偉そうで申し訳ない)を
する場所としない場所ができる。
すると、
しないと決めたところに対して
「あれだけ考え抜いた末に
ここにおまえは
支援しないと決めたのだな」と
暗い気持ちになってしまう。
相手に伝わらなければ
それでいいかもしれないですが、
そこはやっぱり、
自分の問題として在ります。
既に支援が
行き届いているところは
まぁ、いいか。
いちばん
苦しそうなところにしよう。
というようなことも
できなくはないんでしょうが、
そのやり方は、
成金みたいですし、
偉そうですし、
オレ何様?ですし、
そのやり方なら、
顔が見える見えない関係なく、
苦しんでいるところにとも思う。
そんなことを考えだすと、
どうすればいいのか、
わからなくなるんですよね。
それに、
支援の方法や金額にも
いろいろあって、
例えば1万円の支援と
1000円の支援があるとする。
自分は1000円を選んでいて、
ほかはみんな1万円を
選んだとする。
支援したい気持ちは同じでも、
結果に9000円の差が出る。
そうすると、
「1万円支援してくれた人たち」と
「1000円だけの涌井」とになり、
のちのお付き合いに
禍根が残らないのか、とか、
そういうところを
考えだすと、とても苦しい。
断っておきますが、
全て私の中の問題なので、
支援の募り方などに対して
意見や文句があるのではない。
自分のなかで、
そういうところを
どう納得させたうえで、
行動するか、というところが
ここ最近、
ずっと気になっているのです。
同じ気持ちからくるものか、
わからないのですが、
Twitterで回ってくる、
「何人にバトンを渡す」
っていうやつ。
あれも、
私に回ってくるのは
とても嬉しいし有難いしで
お題について、
考える時間も楽しいのですが、
何人か選ばないといけないのか、
というところが難しい。
例えば5人選ぶのに、
考えに考えたすえに選んで、
誰かに無視されたら悲しい。
そのうえ、
私を無視した人が、
ほかの人のバトンには
嬉々として対応していたりしたら
私はきっと平常ではいられない。
そういうことを考えだすと、
これもなかなか、
自分がどれほどのもんやねん、
という思いはもちろんありつつ、
それが大前提としてありつつ、
5人選ぶことによって、
外れてしまう人がいて、
もしもその中に
「選んでくれなかった」
という人がいたら、
なんてことを考えだすと、
本当に難しい。
いや、
何様やねん、
という話なんですけどね。
本当にそれはそうなんですけど。
ということを
いろいろ考えてしまった結果として
私はいただいたバトンには
楽しみながら答えつつ、
他にバトンを渡すことを
ごめんなさいしています。
面白みのない人間で
申し訳ないのですけれども。
なんというか、
人と人との
関わりっていうものについて、
考えさせられる
ウイルス禍なのです。