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そういう部分

 何か面白いものを創ろうとするときには人間に注目をするわけですけど、このとき私はどうしても「こいつ、ほんまにどうしようもないな」っていう人に注目をしてしまいます。魅力的な人物を観ていても「すごいな、素敵だな」と思うことはあってもなかなか創作の種にはなりません。そういう人は創作の種というより糧になります。

 種になるのは自分にとって不可解な行動をする偉い人です。そういう人たちの存在はしばしば激しくストレスになるのですが、そういう人たちがあってこそ面白いものができるのであるから、いなくなってしまったらそれはそれで困ります。どうしてああいうことをするんだろう、あるいはどうしてちゃんとしないんだろう、というのを心のメモ帳にメモしておくと、意外や意外、自分のなかにも「そういう部分」が存在することに気付きます。自分は隠しているけどあの人たちは隠していないだけなのか!とわかったとき、「そういう部分」を持っている自分のことが激しく恥ずかしくなります。その恥ずかしさが創作の原動力かもしれません。

 誰だったか忘れてしまったんですが、「どれだけ年を重ねても恥じらいを忘れてしまったら終わりだ」ということをおっしゃっていました。恥じらいを忘れるというのは、すなわち、「そういう部分」を隠さないことなのだと思います。そう思うのは、自分は隠しているだけマシだと思いたいからでもあります。

「そういう部分」というのは、別に身だしなみが整っていないとか、人に自慢するだけの知識がないとか、そんなことではない。むしろ、せっかくの知識なのに人に得意げに自慢することによってそれは「そういう部分」になってしまいますし、例えば仕事において口ではカッコいいことを吹き散らかしておきながら、いざ同僚や部下や関係者が危機に陥った途端に真っ先に自らの保身に走るというような人間が、身だしなみばかり何より優先して整えていたら、その整った身だしなみこそが最も恥ずかしい「そういう部分」になってしまう。

 できることなら「そういう部分」にまみれた人には近づきたくないのですが、創作のサンプルとしてはこのうえなく上質な高級魚みたいな人間なのでこいつをどう料理してやろうかと創作人としての血が騒いだりもしてしまう。結局自分がいま、創作にポジティブになれているのは暮らしにおいて私にネガティブしか与えない「そういう部分」の塊みたいな人のおかげだったりするので、つくづく人生というのは面白い。

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