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使ってるほうの人生を喜びたい

新型コロナウイルスの感染拡大がなければ、ハングルの勉強なんてしていなかったし、小説を書いて懸賞に応募したりすることもなかったのだろうと思うと、新型コロナウイルスの感染拡大がなかった世界を自分はどう生きていたのだろうと考えることがある。

それなりに楽しく生きていたのだろうとは思うけど、いまはいまで楽しい。たらればにすがるのは過去の栄光にすがるよりも情けない気がする。沢木耕太郎さんの著した『世界は「使われなかった人生」であふれている』という本があり、以前私は先輩にこの本を借りて読んだのですが、実に面白かった。人生には分岐点があり、そこで選んだ道とは違う道を進んでいたら、いったいどんな人生だっただろうか、と考えるのは楽しい時間だけれど、「使わなかったあっちの人生だったほうが、、、」なんてことばかり考えて生きていたら、本当に「使わなかったあっちの人生」のほうがよかったことになってしまう。どっちがよかったかを決するのは自分しかないのだ。こっちがよかったと自分で決すればよいだけの話。

今日の宮崎日日新聞『くろしお』に志村けんさんの著書『志村流』からの引用があった。
「中央線と総武線、東西線は三鷹から中野まで平行して走っている。しかし中野駅を過ぎたところで、三つの電車は別々の駅に行ってしまう」。『くろしお』には「人生においては往々にしてあることだ」と書いてあった。その通りだと思う。

いま、ありがたいことに平行して走っている仲間がいる。勝手に平行して走っていると思っているだけかもしれないけど、少なくとも、そう思える仲間がいる。いずれ中野駅に到着してしまうかもしれないけど、「行ったらあかん道」に進みそうになったら止めてほしいし止めたいし、「希望の見える道」ならば、例え離れてしまうとて、祝福したいし、してほしい。いま、幸いにして平行して走っていることを喜びたい。

コロナのいなかった人生なら、得られなかったものもある。失ったものばかりではないと思う。失ったものもあるし、それについては悔やんでも悔やみきれないけれど、得た喜びにも反応してやらないと自分がかわいそうだ。何かやらかした時だけ文句を言い、お手柄があってもスルーする上司みたいになってはいけない。金メダリストじゃなくても、自分で自分を褒めてあげたい。

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