価値観大逆転スイッチ
ようやく新札に慣れてきました。
慣れる前は旧札と新札を持っていたら率先して旧札を会計に使っていましたが、慣れてくると今度は逆に新札を先に使いたくなります。
価値観が大逆転した瞬間です。
戦前と戦後では先生の言うことが正反対になったという話を知っていますが、そのような一大事でなくとも、世間にはこの程度の価値観の大逆転は溢れていることでしょう。
ちょっと前まであんなこと言ってたくせに!というのは割とよくあることでして、特に政治家の先生なんかはかつての発言について何年経ってもいろいろ言われるものですが、かつての発言と主張が変わっているというのは悪いばかりではないと思います。
出会った頃はあんなに愛してくれていたのに、ということもよくあります。
例えば字がめちゃくちゃ汚いことを知ったとか、その程度のことで価値観は大逆転してしまいます。どこに何のスイッチがあるかはわかりませんが、いまだに全国各地で見つかる不発弾と同じように、どこにあってもおかしくないのが価値観大逆転スイッチなのです。
極右とか極左とかいう言い方がありますが、遠くから眺めていると国を想う気持ちには共通するものがあるようにも思います。端っこと端っこは案外隣り合わせだったりするものです。いまはお互いを罵り合うことで自分の居場所を固くしているようですが、もう少し歩み寄り話し合いをすれば案外、がっちり握手ができるような気がしないでもありません。政治家の先生たちは皆さんきっと「国をよくする」ために動いているはずであり、つまり、目的は同じなんですから、もっとちゃんと話をすればいいのにどういうわけか、他者を罵ることばかりに躍起になっております。ある日突然、極右が極左になることも、その逆も、あるいは少しばかり真ん中に寄っていくということもあり得る話なんですから、いま認められないからといって他を貶めることはないはずです。
中学二年の息子が国語の用言の学習について「意味がない」と言っておりましたが、後年、価値観大逆転スイッチが入り、突如として「意味」が湧いてくることだってあるものです。たかだか十数年生きてきた経験でもって、簡単に「意味がない」と切り捨ててしまうのは危険なことなんですが、若さってそのくらい危ういものじゃあないかとも思う。あの若さゆえの危うさが懐かしい反面、大人になったいま、やはり陥ってほしくないという思いが湧き起こってくるのは、この年になるまでのどこかのタイミングで私にも価値観の大逆転があったのです。
価値観が凝固してしまうより、変幻自在の柔らかさを持っているほうが、気分が楽です。そうありたいと思いつつ、ゆずれないことも思いのほか多い。このnoteにも毎度同じことを書いているような気がする。
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