見出し画像

短編小説『俳句アバージン』

 十九時を過ぎてもまだ明るい。商店街の西の入口に強烈な西日が射し込み、通行人の個性はすべて影となって消えてしまう。
 僕の後ろにある人たちからは僕もあんな風に僕ではなくなっているんだろう。
 僕だとわかったとて関心のない人がほとんどである。我が家からいちばん近い商店街とはいえ、このあたりは学区もちがうし同級生に会うことはない。
 保育園はこっちのほうにあったから、時折この商店街では、もう名前も忘れてしまった当時のクラスメイトのお母さんに遭遇することもあるが、中学二年になった僕のことを、まさかあのちっちゃくてかわいかった弥助くんだとは思いもよらないことらしく、というよりは、小学校の六年間を丸ごとこのお母さんとは疎遠に過ごしていたわけであるし、保育園時代にしたって特別彼女の息子さんとは仲がよかったわけではないから、当時でさえ、私なんぞは彼女にとってワンオブモブであったであろうし、それは今も変わらない、ただそれだけのことである。
 影になっていようがいまいが、僕は影でしかない。たぶん、この商店街を通りゆく誰しもにとって僕は影でしかない。そうやって僕を消してしまえるこの商店街が好きなんだ。

「弥助くん」
 声を掛けて近づいてきた影が同じクラスの長谷川さんだったのは、その声を聞いただけでわかったのだが、こんなところにいるはずがないと己の理解をいったんは否定するも、影が影でなくなったとき、西日を背にした彼女の、逆光であっても輝きまくっているくしゃっとした笑み顔を確認し、それがやはり見紛うことなき、我がいとしの長谷川栞その人であると改めて脳に情報が突き刺さると、一瞬僕の回路はバグってしまい、「ひゃっ!」と情けない声が出てしまった。

「どうして長谷川さんがここに?」
「あたし通ってる合唱団が堀川にあんねん、前にも一回弥助くんっぽいな〜って思って見てたんやけど今日もいたし、やっぱりあれも弥助くんやったんやん」
 前に長谷川さんが見たのが僕かどうかはわからないが、もし、そうだとしたら影のつもりでいたのに僕は全然影ではなかったことになる。
「お、同じ土曜日かな。だったら僕は、月に一回この商店街の堀川寄りにある集会所みたいなところで俳句の会に行ってるよ」
「俳句って五七五のあれ?」
「そう」
「松尾芭蕉のやつ」
「そう、うちは父親の趣味が俳句で。小学生の頃から僕も家では作ってたんだけど、父親の知り合いがそこで月に一回、土曜日に句会を開くことになったからって僕だけ通わされてる」
「わー、すごいやん。ちょっと今作ってみてや」
 こうやって何も知らない人は無茶なことを言う。俳句なんてその道何十年って人でも即興ですぐに捻り出すなんて難しいのに。
 仮にそれができたとしても長谷川さんの前でそれをするのは僕には何かとても恥ずかしいことのように思えた。いっぽうでフリースタイルラップみたいにバシッと決めてみせれば、今日たまたま声を掛けただけの僕のことをこれからもより深く認識してくれるかもしれない。
「って、さすがにそんなアドリブで作れるもんとちがうやんな、ごめんごめん、でもすごいな。中学生で俳句してる子あたし初めてかも」
 ああ、少しの逡巡のせいで長谷川さんは自己完結して先に行ってしまった。カラッとしてるというか、なんというか、僕みたいな暗いところがなくて長谷川さんはいつもリズミカルだ。俳句もリズムだからこういう人のほうが多分向いているんだろうなと思う。
「僕以外は確かにみんなおじいちゃんとおばあちゃんばかりだよ。うちの父でさえその句会に出たら最年少になるし」
「へえ。じゃあ、いま、その句会帰りっていうことやんな。それならさっき作ったやつ言うてみて」
「いや、それはちょっと、恥ずかしいよ」
「えー、そうなん。まあ、いいけど。あたし古池に蛙が飛び込むやつと、あと何やったっけ。岩に蝉の声がしみこむやつと、柿食って鐘が鳴るやつ?あと明治が遠くなるやつくらいしか知らんし」
 意外と知ってるところがこの子の恐ろしいところだ。
「俳句は面白いよ。は、長谷川さんはけっこう好きかもって思う」
「ほんまに?小難しい感じするけどな。あたしはどっちかっていうと短歌かな。短歌は歌人っていうやろ、あれ、カッコええやん。俳句は何人?」
「俳人」
「ハイジンはやばいな。でも弥助くんが面白いっていうなら面白いんかな、今度教えてや」
「ほんとに?」
「えー、弥助くんがいいなら。だって好きかもしれんのやろ、あたし」
 胸の真ん中をゴーンと突かれたみたいになった。梵鐘のゴーン。さっき長谷川さんは俳句のことを好きかもって言ったのは僕なんだけど、だから今のは俳句のことを言ってるんだってわかってるんだけど、「あたし」のことを僕はだって好きなんだから。かもしれないんじゃないんだから。
「いや、まあ、僕だって教えられるほど何もわかってないけど、僕でよければ」
「おっけー。じゃあLINE交換しよ」
 とんとん拍子で話が進むことに興奮を覚えながらも僕は同時に、つまり、これは僕には「そういう人」としての脈が無いからこそのリズム感なのではあるまいか、という絶望も芽生え、それを打ち消すまでの一連の流れを長谷川さんに悟られまいと必死になっていたらものすごい汗が噴き出てきた。こんなときに限ってタオルを忘れている。
「ほな、とりあえず来週の土曜日、あたしは合唱が二時からやし、お昼前にしよっか。集合場所とかは当日までに決めるということで!」
 本日三回目のくしゃっとした笑み顔を見せて長谷川さんは影になっていった。

 思わぬ急展開にドキドキしている。
 今日の句会で僕は長谷川さんを思って一句作ったところだったから。いつまでもどうせ行動には移せない僕を皮肉ってたところだったから。

夕焼けに追いついてから電話する

#短編 #短編小説 #小説 #俳句
#涌井慎 #わくいまこと #こわくいとま
#暇書房

私の著書『1人目の客』や1人目の客Tシャツ、京都情報発信ZINE「京都のき」はウェブショップ「暇書房」にてお買い求めいただけます。

いいなと思ったら応援しよう!