夜というのが何のためにあるのか
今日の愛媛新聞『地軸』が遠藤周作の著書『明日という日があるじゃないか』の言葉を引用していました。
夜というのが何のためにあるのか。眠りは何のためにあるのか。著書の中で遠藤周作は、「夜や眠りによって今日と区別される明日があるから、私たちは生きる上で助かっている」といっているらしい。愛媛新聞を引用すると「その日に嫌なことや不愉快なことがあっても一晩寝て時間を区切るのだ。次の日には、どうにか鎮まって希望が湧いてくるというのは確かにある」。
これは確かにある。秒で怒り心頭に発するということになるような事件があったとしても、寝て起きさえすれば忘れている、なんてことはよくあることです。しかし、それも程度もんでありまして、自分の根幹を為す部分について蔑ろにされたり無視されたりすると、例え寝て起きてすぐは忘れていても、その怒りは恨みとなり、延々と心に根をはり生きながらえ続けるのです。「根に持つ」とはうまいこと言うたもんで。
そんな根っこは切れるものなら切ったほうがよいという意見もあると思いますが、私はむしろ、その根っここそが、自分を形成する肝心要であるということは間違いないわけであるから、無理やりに消そう消そうと行動するのは、己を消してしまうことに繋がりますから、出家するつもりならともかく、そうでないなら、その根っことは、とことんまでに付き合っていくべきではないかと思います。
だって肝心要なんですもの。
負の要素を全て捨て去るなんて無理だと思う。その負の要素がはからずも生きる糧になってることだってあるはずだ。私自身のことを振り返ってみても、やはり、腹立たしさや苛立ち、嫉妬なんていう感情があったればこそ、それが原動力となり、創作に生かされたということは多々あります。せっかく例え負の方向だったとしても、魂を揺さぶられたわけなのだから、そのこと自体は、なんとかして己の糧にする方向に持っていきたい。簡単じゃないけど。
そんなことを思っていたら、知らんうちにその負の感情が消えてしまっていることだってある。そういう場合は、所詮その程度のしょーもない負の感情やったんやで。どうせやったらもっとこっちの魂揺さぶってみんかい。なんじゃい、くそしょーもないくせに偉そうに一人前ぶりやがってあほか。なんて思ったりして結局また負の感情を育てていこうとしたりする。
まぁ、なんにせよ、とりあえず夜にちゃんと寝たらイヤなことは忘れますよね。24時間で1日が区切られてるの、ほんまにありがたいっすよねー。
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