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ぐらぐらと不安定な「みたいな」

令和3年3月30日の日記
家族みたいな付き合いってとても居心地がよくて、何やっても許されるような気もしてくるし、突き離されることもないし、おもいきり甘えさせてくれるし、なにもかも包み込んでくれるようなおおらかさがあるっていう風に思いがちなのですが、やっぱりそれは錯覚だったり、幻想だったりする。家族付き合いではなくて、「家族」と「付き合い」の間にある「みたいな」の危うさをいつも感じておかないと、ある日突然、「あれ?何かが違う、、、みたいな?」って誤魔化しながら作り笑いを浮かべないといけない状況に陥ってしまうことになってしまうのです。

「みたいな」の怖さや、自身の認識の甘さ、詰めの甘さ、周囲に対する期待値の高さ、みたいなもののせいで、「いや、私、そんなんと違うし」とシャッターを下ろされてしまったときの悲しさたるや。下ろしてる側はなんとか下ろしていないかのように取り繕ったりするんだけれど、こっちもそういうのには敏感ですから、「あ、この人、下ろしてるな」っていうのはわかってしまうものであり、そういうとき、「そんなこともわからないくらい鈍いとでも思っているのかい?」と反発したくなる反面、これ以上傷つかないようにしてくれてるんですよね、なんだか申し訳ないです、っていう気持ちが半々。片方ですごく愛しているのに、片方で同じくらい憎たらしい。これって思春期そのものだったりしませんかね。

こんなにこじらせてしまって、本当の家族ならちゃんと面倒みてくれるんですけど、ここでも「みたいな」が邪魔してくる。だって、その「みたいな」は、あなたが勝手に作り上げた「みたいな」ですから、私は知りませんわよ。って笑いながら、ぶっといナイフを突き刺してきたりするのに日々、耐えていたりするんですが、いかんせん、向こうは、そのナイフの切れ味の鋭さに対する理解に乏しいっていう、そういうことが私にはよくありますが、皆さんは無いんでしょうか。

っていう、なんだかもやもやした思いって、あんまり共有したくもないのですが、いや、共有はしたいんですけど、それっていうのは、どうせ入院するなら設備の整った病院に入院したい、というようなもので、入院しないで済むに越したことはありません。

今月は、そういう思いの共有が、残念ながら、たくさん起きました。たくさん起きたのは、家族みたいなお付き合いだからなんだと思います。つらい。とても、つらい。つらいけれども、そのつらさを和らげてくださるのもまた、家族みたいな付き合いだったりするのです。

みたいな??

なかなか厄介な、この「みたいな」に、もたれたり、寄り添ったり、引っ張ったり、押し込んだり、吸ったり、舐めたり、揉んだり、出したり、入れたり、ああ、なんか途中から家族にはしないことばかりになってしまったけど、「みたいな」に対していろんなアプローチをしながら、想像以上にぐらぐらと不安定な「みたいな」を丁寧に丁寧に取り扱うことが、自分の身を守ることにも、相手に対して配慮することにも繋がるのであろうな、と思います。自分ばかり、可愛がったらいけませんね。

明日もがんばります。
六角堂の柳と桜が綺麗でした。
春。

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