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ロックに生きる

 俺はカッコ悪いことは絶対にやりたくないっていう強い意志をもった人が僕の周りにはたくさんいて、その多くがどういうわけかカッコ悪い。

 なぜそういうことになるのか。
 結局のところ、何がカッコよくて何がカッコ悪いかのポイントをちゃんとおさえられていないんだと思う。

 カッコいいとカッコ悪いを僕は「ロック」と「ロックじゃない」というようにしている。俺はロックじゃないことは絶対にやりたくないっていう強い意志をもつ人がなせだか全然ロックじゃないということが本当によくある。

 例えば記憶に新しいところでは、昔はレコードを万引きしまくって音楽の知識を身につけていたと得意げにSNSに投稿する音楽ライターなんかはまさにその典型であると思う。

 酔っ払いの武勇伝なんかも恥ずかしいくらいにロックを履き違えている。
 俺、酔うたら虎になるねん、などといって他人に迷惑をかけた話を自慢げに話す人をみていると哀れになってしまう。あんなにロックを履き違えてしまうことがあるものなのか。

 今日の忍たま乱太郎に悪いことをしたのに謝りたくない二人組が出てきたが、僕の周りにも、もうとにかく「謝らない」ことがこの人の人生の使命なのではないか、というくらい謝ることから逃げる人がいる。
 軽いタッチで「ごめんなさいね」とは言うが、これを言うのは本当は悪いと思っていないときである。本当に自分が悪いのがわかっている場合はとにかく逃げる。誰を蹴落としてでも犠牲にしてでも自分だけは絶対に責任はとらない、ということを命懸けで遂行する、その姿を見て誰がこの人をロックだと思うんだろう。

 そういう人が男としての美学を語っていたりすると何かのコントかと思ってしまうから、そういう人が男としての美学を語っているコントを今度作りたいと思う。

 そのようにして自分の創作の題材にすることしか僕にはできない。

 創作とはこのようにして、怒りや理不尽、ストレスなど決して健康とはいえない状態を糧にしてなされるものであるとするなら、創作をする人間がある程度、虐げられるのは、創作のためにそうなっているといえるのかもしれない。

 そうであるなら、創作人として題材に困ることがない今の環境はくそみたいに素晴らしい環境といえる。ロックを履き違えたしょうもない大人に自分がならないために、ああいう人たちをアホ扱いするネタを作り、そのことにより、ああいう大人にだけはなるまいと心に誓うのである。

 生きる姿勢、内なる魂をロックにして生き抜いてやる。

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