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言葉を疑うということ
今日あった出来事を嘘偽りなく書き記しておくことができるかどうか、疑わしい。
先日お亡くなりになった谷川俊太郎さんは言葉を疑い続けていたらしい。実際、何かしらの事実や景色、心象をどれだけ丁寧に書いて記録しようとしても、言葉に変換する時点でそこには差異が生じてしまう。
丁寧に感想を言葉にして表現する食レポが嘘くさく聞こえるのもそのためではないか。本当に美味しければ「美味い!」以外に何か言葉にする必要があるだろうか、と思ってしまうのは、それはどこかでやはり言葉というものを疑っているからなのではないか。
言葉を使う人は言葉を疑っていないといけないとも思う。言葉の力を信じ、巧みに表現を駆使する食レポは言葉を疑っていないがゆえに嘘くさく感じてしまうにちがいない。
そうかといって、食レポなのに「美味い」「やばい」「すごい」だけでは面白みがない。これはいわゆる「逃げ」あるいは「すかし」と呼ばれるものであり、一つの技術であるといえなくもないが、食レポを聞いている側からすると、上手いこと表現できないからとりあえず「美味い」で逃げたな、と思ってしまう。
しかし、「逃げる」あるいは「すかす」は、つまり、言葉を疑っているからなせる行為でもあるから、上手すぎる食レポよりも実は誠実なあり方なのではないか、とも思う。
今食べたものの感想を述べるにあたり、如何に実際に感じたことを正しく表現するか、細かいことをいえばいうほど、齟齬が生じ、仮に上手いこと言えたとしても自分のなかの事実と乖離してしまっていることが気持ち悪い、それならば、雑ではあるけど間違ってはいない「美味い」でまとめておくほうがベターなのではあるまいか。
そういうところにまで思い至ったうえで言葉を駆使して食レポができるかどうか、それが言葉のプロとそうではない人との境目なのではないかと思う。
私は言葉の力を疑ってもいるし、何より己の舌を疑っているので、何を食べても「美味い」としか言えませんから食レポには向いていません。ラジオパーソナリティの方のなかには、本当に上手に食レポされる方がいて、(前述した表現を駆使した「嘘くささ」のない、めちゃくちゃ上手な食レポをされる方もいるのだ)私には無理なことだから、つくづくすごいなと思う。
今日はお昼にラーメンを食べました。
美味しかったです。
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