見出し画像

正しくセットアップされる悦び

方向音痴にとって京都はとてもありがたい町だ。碁盤の目のようになっているため、仮に真逆を進んでいても一つめの交差点で方向修正ができる。引っ越してきたての頃、四条烏丸から北上するつもりが烏丸五条に辿り着いてしまい、引き返して三条の方へ進むということがよくあった。

「よくあった」のだ。
一度で学習できないくらい方向音痴なのだ。

京都の碁盤の目がありがたいとはいえ、私は毎度毎度、四条五条間の往復分、無駄を積み上げていた。

それでも無駄なことばかりではない。方向音痴には方向音痴ではないと辿り着けない場所がある。昨日、帰省のためJR京都駅から実家のある長浜へ向かった。京都駅で新快速を待っていると、新快速はいつも自分が思っていたのと逆側からやってくる。これから向かうはずの方からやって来るものだから、「本当にこれは長浜方面へ行くのか」と疑うのだが、行き先はちゃんと「近江今津」と書いてある。間違いない。私の感覚が180度ずれているらしいから、仕方なしに乗車する。

ずっと違和感を持ちながら電車に揺られるのだが、次の山科駅で停車し、ホームの「やましな」と書いてある案内板(というのかわからないが)の下に控えめに方向進行に「おおつ」来た側に「きょうと」と書いてあるのを確認したあたりで真逆だった方向がストンと正しい方向にセットアップされるのだ。あの感覚!!あのストンと落ちたときの感覚こそが方向音痴ではないと辿り着けない場所なのだ。あのズレていたものが正しい場所にジャストフィットしていくプロセスが気持ちよいから、負け惜しみではなく本当に方向音痴でよかったと思う。

あの整っていく感じが何かに似てるな、と思ったのだが、おそらく、語学の学習に似ている。「語学学習」などと書くと大風呂敷を広げた感じになるのだが、なんにせよ、母語ではない言語を学習するときに同じような体験がある。サザンオールスターズ の「C調言葉に御用心」という曲の歌詞に「たまにゃMakin'love そうでなきゃHand job 夢でI'm so sad」という箇所があり、私はこれを「たまにはやらせてよ そうでなかったら手に職でもつけなさいよ (でないと)夢でも私、悲しいよ」ということだと思っており、「仕事と私とどっちが大事なのよ!」とかいうセリフを遥かに凌駕する、なんとも素敵な世界観だなーと感心していて、そのことを英語ができる後輩に話してみたら「Hand jobはそういう意味ではないですよ」と言われ、調べてみたら、まったく予想外の意味があり、逆方向に進んでいた私の思考がグイッと無理やりに正しい方向にセットアップされたのだが、あの感覚もまた、語学に秀でていけばいくほど、感じる機会が減っていくものだろう。

「できないこと」はバカにされることが多いし、それで構わないとも思っているのだが、そのいっぽうで、「できないこと」によってしか辿り着くことができない場所があるのだということをできる人は一生わからないのだろうなーと思うと、できる人たちってつまらないよな、なんて思うのだが、これは負け惜しみである。

#コラム #エッセイ #日記
#noteコラム #noteエッセイ #note日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?