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短編小説『或る春休みの昼』

 また失敗。
 そろそろ癇癪を起こす頃かもしれない。
 地雷はどこに埋まっているか、わからない。寝顔は天使みたいなのに、一度不機嫌になったらどうしてあんなに手が付けられない悪魔になってしまうのか。

「もう一回やる」
 おや。癇癪が起きない。もう三回失敗している。いつもなら上手くできないイライラを私にぶつけてくる頃なのに今日はその気配がない。

 前回は何回か失敗が続いたあとに「卵も高いんだから無駄にしないでね」と言ったのがまずかった。スクランブルエッグで食べれるから無駄なんかじゃないと言って顔を真っ赤にしながら私に殴りかかってきた。大粒の涙がこぼれ散らかしていた。
 あんなに純粋な涙を流せることに羨ましさもある。卵焼きが上手く作れないからといって、ただ、その程度のことで涙がボロボロこぼれるなんて。

 フライパンをじっと見つめている。
 彼なりに何がよくなかったのか、考えているんだろう。その集中力にはハッとすることがある。
 絵を描くときがそうだ。私はよく知らないのだけど、人気アニメのキャラクターなんかをスマホで画像検索をして、それを見ながら描いている姿は一心不乱という言葉がぴったりだ。3時間くらいは普通に描き続けている。
 私はあまり大袈裟なリアクションをしてあげられないので、出来上がった作品は夫に見せにいく。夫は夫で絵が上手だから、そんな夫に褒められるほうが彼も嬉しいのだろう。

 いま、彼が使っているフライパンは数日前、彼が卵焼きを作る用に百均で買ったものだ。小学3年生でも使いやすいように小ぶりなものを買ったのだが、使い勝手がいいので私も使っている。
 ただ、私が使うときは事前に使用申請をしておかなければならない。許可なく使ったのが見つかってしまったが最後、またあの癇癪地獄がはじまってしまう。家計からお金を出して買ったのだから、我が家の誰が使ってもいいはずなのだが、彼にとっては「僕が卵焼きを作るためのフライパン」なのである。その点に留意さえしておけば問題はない。

 この家には留意点が多すぎる。
 どこの家もそんなものなんだろうか。

 卵焼きの失敗作をお皿に移してなお、フライパンには失敗作の残骸がこべりついている。あれをそのまま使うと、きっとまた失敗してしまうのだが、上手く伝えないとこれは癇癪の種に違いないと思っていたらちゃんと水洗いをしだしたので「おっ」と思う。
 でも、失敗は今日三回目だし。その程度は学習してもらわないと、という気もする。っていうか、一回目と二回目の失敗のときはどうしてたんだったかな。前回は?その前は?ずっと見守っているつもりだったのにちゃんと憶えていないことが多い。

 水滴のついたフライパンを火にかけ、水滴を蒸発させる。ここで声を掛けてはいけないことを私は知っている。真剣な眼差し。あの眼差しをもう少し漢字ドリルにも向けて欲しいと思うのだが、夫は訳知り顔で「夢中になれるものは夢中にさせておけばいい」などという。
 そんなことは私も重々承知している。
 承知したうえで、それでもいまの学校教育のシステム上、卵焼きが上手く作れることよりも学校のテストで高得点をとることのほうがこの子の将来のためになるのだということを言っているのに、どうして私ばかりわからず屋扱いされないといけないのか。

 十分に熱を帯びたフライパンにサラダ油を垂らす。入れすぎなんじゃないかと思うがそれも言わない。ここまでの失敗の主な要因がサラダ油の不足であると結論付けたうえで対処しているのだ。この際もったいないなんてことを言うのは野暮だ。

 卵はもう十分に溶いてある。この子は昔から卵をかき混ぜるのが好きだった。まだきかんしゃトーマスが好きだった頃、もうトーマスを見ながら卵を溶いていた。パソコンのブラインドタッチみたいだった。いまはブラインドタッチって言わないんだったかな。とにかく卵を溶くのは上手い。たぶん夫より上手い。

 我が家は卵焼きに砂糖を使わない。塩をひとつまみである。この子のひとつまみだから少しばかり味は薄くなるのだが、中年の身体にはそのくらいがちょうどいい。夫はどうせ醤油をかけて食べるからどっちでもいい。

 この子が卵焼きを作る用に買ったフライパンではあるが、それは小学生が使いやすい小型のフライパンであるというだけで、卵焼き専用のフライパンではない。だからどうしても整った形に巻くのは難しい。これについては彼も納得済みである。多少不細工でも構わないからちゃんと巻かれていれば問題はない。
 たぶん、彼はまだ卵焼き専用の長方形をしたフライパンが存在することを知らない。最初から便利なものを使ってしまうより、使い勝手の悪い道具で創意工夫をするほうがいいと、もっともらしいことを夫が言ったときには、またか、と正直鬱陶しく思ったものだが、あながち間違いではないらしい。鬱陶しいけど。

 雨音みたいなジューっという音。
 中火より少し強めの火に灼かれ、熱い熱いといいながら卵はサラダ油の上をなめらかに滑り、フライパンのあっちとこっちをハーフパイプみたいにアクロバティックに動いている。以前一度、豪快に滑りすぎてキッチンを飛び越えてしまったことがあった。
 キッチンを超えたからK点超えだと夫が言ったが、夫が言うより先に私も頭には浮かべていた。

 今回は上手い具合にひっくり返る。
 フライパンにもひっつかない。
 手際よくフライパンの中でお箸を駆使してくるくる巻いてできあがり。綺麗とはいえないが立派なものだ。私が作ったほうが早いのだが、それは言わない。

 卵焼きをお皿に乗せてから振り向いた、そのときのおでこに光る汗と、得意げな顔が愛おしくてたまらない。癇癪を乗り越えたんだからK点超えだと思った。

子のつくる卵焼き食ふ春休み

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