私の水をかきまぜる
今日の京都新聞は祇園祭特集が組まれており、巡行する全ての山鉾について実に細かい字で説明が書かれていた。毎年同じ山と鉾が巡行するのではあるが、それでも今年はどこの山の懸装品が新調されたとか、復元されたとか、何かしらの変化があり、正直なところ、去年まではどうだったかを記憶しているわけではないので、その変化について感動があるわけでもないのであるが、こうして伝統は流れるようにして受け継がれていくのであるな、ということに毎度毎度感心してしまう。伝統を受け継ぐというのは変化を拒む頑固なイメージがあるが、そんなことでは時代に乗り遅れてしまうのである。長い歴史を背負っている人ほど柔軟なのだ。変わっていくことを拒むことが衰退をもたらしてしまう。
水は置きっぱなしだと腐ってしまう。流れていかないといけない。我々人間だって体の七割ほどは水分でできているらしいから、流れていかないと知らずうちに腐ってしまうのである。
そんなことを書いていると、なんか前にも同じようなことを書いているような気がしてくる。つまり、私はずっと同じことを考えているわけで、それは私が停滞して腐りはじめているということなのかもしれない。というところまで前に書いたような気がする。しかし、祇園祭が毎年変わり続けているように私の思考も、同じようでいて更新はし続けているんだろうと思う。劇的に変わることだけが変化ではない。知らないうちに変わっていたっていうくらいの変化のほうが自分も周りも受け入れやすい。実は私も何も変わっていないんじゃないか、と常からかえりみるくらいでいれば、水を腐らせる前にかきまぜることくらいはできそうだ。
自分が面白いと思っていたことが今はもう面白くなかったり、前はかっこいいと思っていたとのがそうでもないように思えたり、逆に昔はまったく意味がわからなかったものがわかるようになったりするのはきっと私の水が腐っていないからだし、それ以前に「昔何かを面白いと思っていたこと」「前に何かをかっこいいと思っていたことら」「昔、意味がわからないなりになんらかの作品に触れたこと」それ自体がなければ、腐らぬようかきまぜることすらできないわけであるから、とにかく何かに触れ続け、何かを感じ続けるということも大事なのではないかと思う。
毎年同じ時期に同じ祭りに触れることができるのは実はとてもありがたいことなのではないか。今朝の京都新聞の祇園祭特集の記事を読みながら水をかきまぜたらそんな答えが出てきた。
#日記 #コラム #エッセイ
#祇園祭 #水 #おいしい水
#涌井慎 #蠱惑暇 #こわくいとま
蠱惑暇(こわくいとま)こと涌井慎の著書『1人目の客』と1人目の客Tシャツは是非ウェブショップ「暇書房」にてお買い求めください。
8月12日(月・休)に西院陰陽(ネガポジ)にて開催する「涌井大宴会mini(仮)」でも販売します。よろしければご来場ください。
というわけで、暇書房のウェブサイトは↓