黄色いひまわり、水風船、三つめの言語とカリカリ梅
涌井慎です。新聞のコラムを読むのも趣味です。日経新聞夕刊の『プロムナード』は今月から顔ぶれが変わり、金曜日は美術史家の秋田麻早子さんです。
初回は秋田さんが、10年ほど前に何人かで美術館へ行ったときのことが書いてありました。メンバーには全盲のO氏もいました。O氏がゴッホのところで「『ひまわり』って黄色なんだ!ゴッホって炎の画家って言うから、てっきり赤い絵なんだと思ってたよ」と言います。誰かが「黄色いひまわり」と説明したのだろうと秋田さんは推測しつつ、「当たり前すぎて、O氏がいなければ言わなかったかもしれない」とのこと。確かにひまわりが黄色いなんてことは、当たり前すぎます。周知の事実でもありますから、その特徴について、敢えて触れることはありません。秋田さんは、その経験のあと、「急に、『ひまわり』の黄色がさっきより鮮やかに見えてきた」といいます。
先日、近所の商店街の夏祭りに小学2年の次男と二人で出かけたところ、思っていた以上に混雑していて、アーケードの下は見渡す限り人だらけ。人人人で熱気はムンムン、屋台に出ているビールが飲みたいな〜と思いながらも、次男を見失わないよう、背中を追いかけていたのですが、その次男が私のほうへ振り返り、「みんな水風船持ってる」と言うんです。言われてみると、「みんな」は大袈裟にしても、確かにゆく人、来る人、その多くの子供たちが片手に水風船を持っているではありませんか。そう言われるまで私はまったくそのことに気づきませんでしたが、言われてからは、ビールなんぞ目に入らず、子供たちの持つ水風船ばかりが気になるようになってしまいました。同じ商店街、同じ方向を歩いていても、見えるものは、こうも違うものなのか、と驚きながら、私は黄色いひまわりの話を思い出していました。
翌日の朝日新聞の「日曜に想う」というコラムのなかには比較文学や翻訳研究が専門の日本大学大学院の秋草俊一郎准教授の著書「『世界文学』はつくられる」で説いている「文化の三点測量法」について書いていました。日本と英語圏に「もう一つ」文化圏を加えることで、「二項対立に陥らない議論」へ導くことが大切なのだといいます。たとえば、日本語と英語にさらにもう一つ、何か違う言語を勉強すれば、確かに見える景色は変わるかもしれません。と、コラムの執筆者である朝日新聞論説委員の郷富佐子さんも書いていますが、私もそう思います。これも、当たり前に見えているものを鮮明にしたり、存在するのに見えていなかったものにピントが合うようにしてくれたりするんじゃないかしら。
面白かったのが、今日の日経新聞夕刊「プロムナード」。火曜日は作家のくどうれいんさんです。くどうさんは、カリカリ梅が大好きなんですが、ある日、梅が苦手な女性と一緒に同じ幕の内弁当を食べる機会があり、お弁当のお米の上にはカリカリ梅がひとつ。「もーらい」と箸をのばしてくどうさんが、その女性の梅を奪って口へ放り込むと、彼女は「赤く染まったご飯までが梅です」と言い、その窪んで赤く染まったご飯一帯をも、くどうさんが食べることになったそうです。これを受けて、くどうさんは「時に、あるものを溺愛している人よりもそれを嫌いな人のほうが本質をしっかり見ているように思うことがある」と書いていて、これもまた面白い考察だなーと思った次第です。
黄色いひまわり、水風船、三つめの言語、そして、カリカリ梅。ぜんぶ、違う話ですが、ぜんぶ、妙につながっているような気がして、ただ、ぜんぶを綺麗につなげてしまうのは、強引であり、危険な気もするのですが、なんというか、水風船という、自らの経験も含め、美しい流れのなかを過ごしたような気がして、こういう流れを大事にして、日々過ごしていきたいものだな〜と思いながら、今日は久しぶりに、三つめの言語の勉強をしてみたハングル検定5級の私です。
商店街の祭りの日、その後、私は次男に水風船を買ってやったんですが、それが、なんだか、とても幸せでしたね。なんでしょうね、あれは。あの時の親父に今、自分がなっている、というような、ノスタルジーもあったんだと思いますが、なにしろ、幸せな気持ちでした。