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短編小説『みどりさん』
不慮の事故により夫を喪くした未亡人は四十九日が過ぎても喪服着用で俯きがちに生きていないといけませんか。
食事も喉を通らないから日に日に痩せ細っていくようでなければ亡き夫への愛情が疑われてしまいますか。
先日、私は普段着で、いえ、特段詳しく書くほどのものでもない、赤いTシャツにジーンズだったんですけど、ええ、もちろん、街中に出るんですからそれなりにお化粧もしていきました。新京極を歩いておりましたら、みどりさんに見つかりまして。
正直なところ、嫌な人に会ってしまったと思ったんです。夫が亡くなってからというもの、みどりさんは、もちろん親切心からだとは思うのですが、実家の母から野菜が届いたなどといって、なんやかんやと理由をつけて家に上がり込んで長い間、自分のことばかり話しつづけ、時には晩御飯を食べて帰ることさえあります。
「なんだかお腹が空いてきたわね、ちょうどいいわ、ワタシが持ってきた里芋、あれを唐揚げにしてみたらどうかしら。ワタシ昔、木屋町の居酒屋でアルバイトしていたことがあったんだけど、そこの料理にあったんだけど、これがすごく美味しかったんだけど、久しぶりに食べたくなっちゃった」
遠慮の欠片もありません。
もちろん、里芋の唐揚げだけでは晩御飯になりませんから、お味噌汁や秋刀魚の塩焼き、キノコのマリネなんかも作ってお出しすることになります。高い里芋を買わされた気分です。
自分の話しかしないうえにみどりさんは「けど」で延々話題をつなげるから聞いていて疲れます。インテリぶる割にあまり頭が良くないのです。
だいたい里芋の唐揚げとか。
いったん煮てから揚げるから手間がかかるのをわかって言っているのでしょうか。
お腹が空いたのであれば、もっと手っ取り早く出せるものがあるではありませんか。
私が気を利かせて漬物を差し出すと、何も言わずにそれを食べる。お腹が空いたんなら沢庵で白ごはんでも食べておけばいいのに。別に弱みを握られているわけでもないのに、どうしてみどりさんとはこんな付き合い方しかできなくなってしまったのでしょうか。
私がキッチンで調理にかかりきりになるとみどりさんはテレビのチャンネルをザッピングしはじめました。どうやらこれというテレビ番組が放送されていないようです。
他人の家で料理を作らせておいてその間、テレビのチャンネルを変えるなんて、私には信じられません。逆に羨ましいくらいです。
里芋の唐揚げをリクエストするくらいですから、みどりさんはお料理にはうるさいんです。他人に作らさせておきながら味付けに意見をするなんてこと、私には絶対にできません。
沢庵を食べ終えたみどりさんは、私の知らないうちに引き出しにしまってあった湖池屋のポテトチップスを出してきて、封を開けてバリバリ食べています。みどりさんは一枚ずつ食べるなんてことをしません。一掴みで二十枚くらいつかまえます。てらてらの油まみれになったその右手を、みどりさんがどこで拭いているかは見ないようにしています。
そんなみどりさんとまさか新京極で鉢合わせするとは。気づかないフリをして通り過ぎようとしたのですが、向こうが私に気づいてしまったからもうどうしようもありません。
「あら、こんなところにお出かけされるなんて。あなた、いくらなんでも早すぎやしない?」
最初私はみどりさんが何をおっしゃっているのか、意味がわからなかったのですが、どうやらまだ四十九日が過ぎたばかりだというのに、夫を亡くした女が新京極なんぞに出てくるのは非常識ではないか、ということが言いたいらしいのですが、私のそれが非常識なのだとしたら、他人の家に上がり込んで里芋の唐揚げを作らせ、できあがるまでの間に漬物を食べ、勝手にテレビのチャンネルを変え、引き出しにしまっておいたポテトチップスを知らないうちに食べるあなたのほうがよっぽど常識知らずです。と、言いたくて仕方ありませんでしたが、それらの言葉をぐっと飲み込みました。
飲み込みすぎて喉が詰まりそうになりました。
「あ、え、あの、う、う、ええ」
どうやら本当に喉が詰まってしまったみたいです。うまく言葉が出てきません。
「常識の話をしているの。ワタシだったからよかったけど京都は狭いから変な人に見つかっちゃったらえらいことになっちゃうけど、そういうところをちゃんとしないと、あなた、大切な大切な信頼ってやつを失ってしまいますよ」
「みどりさんには関係ないでしょう。私のことはもう構わないでください」
自分でもびっくりしました。自分の口ではないみたいでした。夢の中で自分を俯瞰しているような妙な気分でした。自宅ではなく、新京極の人混みのなかだったので、いつもより開放感があったのかもしれません。
喉が詰まってしまったみたいになってる時に、たぶん私はぐっとかがみ込んでいたのでしょう。それが上手い具合にパワーを充填することになり、みどりさんの常識の話によって引き金が引かれ、パンって弾けたのだと思います。みどりさんの唖然とした顔は覚えていますが、その後どうしたのか、記憶にありません。
この日以来、みどりさんが我が家を訪うことはなくなりました。
なくなってみて分かったのは、みどりさんのおかげで夫の不在が悲しくならなかったということです。みどりさんの図太さ、傍若無人ぶりに憤っていたからこそ、私は夫ののことを思い出すことなく、日常を過ごすことができていたのでした。
今さらみどりさんにこちらから連絡するわけにもいきません。わざわざ不愉快な思いをしたくもありません。
でも、私は今、誰もいないリビングで夫の帰りを待っています。この頃ようやく風が冷たくなってきました。私は窓を閉めました。
秋風はひとりぼつちの人に吹く