短編小説『人生列車』
京都河原町、烏丸、大宮、西院。京都にお住まいの方ならすぐにおわかりと思う。阪急電車の駅の名前だ。京都河原町は、少し前まで、ただの河原町だった。あの頃のほうが情緒があった。京都と付けるだけで、どうしてこれほどまでに格好悪くなってしまうのだろう。烏丸も大宮も西院も京都なのだから、最奥の河原町が京都であることは明らかだろうに。まさかどなたか偉い人が、河原町が滋賀だとでも勘違いしなさったのか。この国は偉い人の都合のいいように動くから、きっと、そうに違いない。
その格好悪い名前の駅は、しかし、始発であるがゆえに便利ではある。私は最寄駅が西院なのであるが、大阪方面へ向かう時は、河原町まで歩いていき、京都河原町で特急電車に乗ることにしている。歩くのは身体にもいいからね。ちなみに向かう先は、淡路や十三のさらに先の終点、大阪梅田駅という、これまた格好悪い名前の駅だ。
京都河原町で特急に乗る場合、だいたいは、希望通りの座席に座ることができる。私が希望するのは、二人席の窓側である。むろん、私がその席を確保したとき、隣の通路側の座席は空いている。大阪梅田まで、この席が空き続ければそれがいちばんよいが、コロナの落ち着いたいま、なかなか、そういうわけにもいかないから、とにかく、二人席の窓側を確保できさえすれば、よしとする。
わざわざ西院界隈から歩いて河原町までやってきたのに、既に乗車待ちの人が並んでいて、二人席の窓側を確保できないときもある。その場合、時間に余裕があれば、次の特急が到着するのを待ち、一番目に電車に入る。西院界隈から歩いてきた努力と、通路側にしか座れない結果の釣り合いが取れないからだ。これは時間の無駄ではない。選択の余地である。仮に西院から乗るのであれば、一本待とうが待つまいが結果は同じである。そこに選択の余地はない。
しかしながら、面白いもので、分相応をわきまえてもいる。西院から乗れば、どうせ二人席の窓側なんぞ、はなから座れるはずがないとあきらめている。通路側にさえ、座れれば僥倖というものだ。それだけにストレスが無いともいえる。無限に選択肢があるが故、我先にと乗車口に並び、人を押し退けてまで良い座席を確保しようとする。吊り革にぶら下がるつもりで乗れば、それはそれで、さほど辛いものではない。はからずも、通路側の席が空いていることもあるし、四人がけの座席なら、ひと席くらいは空いていることが多い。今日の私は、四人がけの座席の通路側の空いている一席に座ることができた。目の前に女が一人、窓際には少年と男子が座っている。
さて。
私はいま、どのあたりにいるのだろう。気持ちとしては、まだ西院駅を出発したばかりだが、おそらく実際は、もう高槻市駅を越えており、ひょっとすると、茨木市を通り過ぎ、淡路あたりにいるかもしれない。しっかり吊り革につかまることもなく、揺れて揺られてふらふらしている。用意周到に京都河原町から乗車して、窓際の席を確保したはずであったが、ふと、そのことが、なんだかとてもつまらないことのように思われ、気まぐれに席を立ってしまったのだ。せっかくの良い席を離れてしまった私のことを、変わり者だと嗤う者もいたし、近しい人のなかには、説教を垂れる者もいたが、いざ、座席を離れてみると、立っているのも悪くない。私と同じようにして、立つことを選んだ奴もたくさんいた。本当は座りたかったが間に合わずに仕方なしに立ってみたところ、意外な心地よさを発見した、という男もいたし、その男の隣には、女もいた。付き合いはじめたらしい。不思議なもので、もともと一人だった者たちは、三人四人と群れだし、気づけば二人一組になっていた。一人になった者もいる。一人になった者同士は、付かず離れずの距離を保ち、どちらからとなく甘えたり、突き放したりしており、互いが互いを利用しているようであったが、両者納得づくの良好な関係といえる。
四人席に知った顔が三人座っている。窓際の席には、中学生ほどの少年と、まだ小学生低学年とみられる男子、男子の横の通路側には、私と同い年ほどの女が一人。ああ、あそこは、私の座る場所ではないのか。通路側の席だが、あの席に座れば、私は、私がうまく収まるような気がする。あそこに座っておけば、何もかも上手くいきそうな気がする。しかし、やがて少年も男子も、どこかへ立ってしまうだろう。この電車を降りて、違う電車に乗るはずだ。そうなれば、女もずっとあの場所にいることは選ばないように思う。私があそこの空席に座るのと同時に、三人は離れてしまうかもしれない。私がこうして立っているから、あの三人は、あそこで安穏としているのかもしれない。しかし、それは、私が他のしっくりくる座席を探し続けたいがために描いた都合のいい虚構なのかもしれない。今のまま、無責任に立つことをもってアイデンティティを築き、現実から目を背けるのか。
ゆらゆら揺れながら歩いてみると、途中で降りた乗客も多いようで、所々、席は空いている。選り好みをしている場合ではないから、座れるならどの席でも座ればいいのだが、どの席でもいいのであれば、あの席に座ればよいのだ。あの席に座らないがために立っているのに、惰性で別の座席に座ることほど屈辱的なことはあるまい。私には、座りたい席があるが、どこにあるのかわからないだけだ。車両を移り、端から端まで探してみたが、どの席がその席なのか、わからないだけだ。そうやって探し続けること自体が楽しくなってきただけだ。そんなことのためにあの席を空けておいてよいのかという葛藤があるだけだ。
あの席にいた少年と男子がいなくなっている。どこに消えてしまったんだろう。男子の座っていた席、つまり、女の隣には別の誰かが座っている。それが誰なのかを私は、どうしても確かめたくない。いや、正確に言うと、どうしても確かめたいのに確かめたくない。女の隣は、私でないなら、少年か男子であるべきなのだ。誰なのかわからない誰かが座っている以上、私はもう、あの空席には戻れない。しかし、それなら私は、いったい、私の探している席はいったい、どこにあるのだろう。
電車は十三を過ぎ、知らずうちに淀川を渡ってしまった。私は何者にもならないうちに淀川を渡ってしまった。こうなれば、ジェラシーも何もあったものではない。私は女の隣にいる誰かが誰なのかを大阪梅田に着いてしまうまでに確認しようと思った。急いで車両を移動して戻ってみると、女が菩薩のような微笑みを浮かべている。誰かは大人になった男子だった。菩薩様の絵を描いていた。そうか、君は絵描きになったのか。少年は何処へ行ったかと聞くと、彼は淡路で乗り換えたらしい。
もう淀川を渡ってしまったよ。と私が言うと、菩薩様と絵描きは何処かへ消えてしまった。目が覚めた。対面の女は消えており、背の高いおっさんがいる。窓側の少年と男子もいない。私の隣は空いていて、その向かい側には、背の低いおっさんがいる。隣が背の高いおっさんだから低く見えるだけかもしれない。魔法にかけられたような気がして苦笑し、窓側の席へ動く。電車はまだ高槻市に着いたばかりだ。
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