恐怖の夜
これは関東に住む読者の方から寄せられた話になる。
彼には行きつけにしているバーがある。
古いマンションの1階にある古ぼけたバー。
カウンター席しかなく店の照明もただ暗いだけでムードがある訳でもなく
店内にはマスターが好きなジャズのレコードがいつも流れている。
たまには別の音楽をかけてくれと頼んでもキッパリと断られる。
つまりマスターは頑固一徹な人間であり、自分の店なのだから自分の好みの音楽をかけ
マスター自身が気に入った酒しか置いてくれない。
気に入らない客がいればお金も貰わずに店から出ていかせる。
それでも常連客はしっかりと定着している。
確かに毎週通ってくる客は少ないのかもしれないが毎月1度、年に数回、数年に一回
という感じで常連客が離れる事は無い。
それはきっとマスターが作る酒の味のせいなのだと彼は言う。
特に拘った水を使い氷にも拘りグラスにも拘りがある訳ではない。
マスターはごく普通の動作でカクテルや水割り、ロックやストレートを作り無言で客の前に差し出す。
「お待たせいたしました」くらい言えばいいのに・・・。
いつもそう思うらしいが一口グラスに口を付けるとそんな思いなどすぐに消えてしまう。
まさに至福の味。
どうして同じウイスキーなのにマスターが入れるだけでこれほど豊潤な味に仕上がるのか、
まるで魔法にでも掛けられている様に感じられるそうだ。
そんな感じだから彼も毎月とはいかないまでも仕事で大失敗した時や悩み事がある時などにそのバーを訪れてマスターが作るドライマティーニを飲んでいるそうだ。
そして、それはちょうど彼が久しぶりにその店を訪れてのんびりと酒を楽しんでいた
時の事だった。
60歳くらいの男性が店の中に入ってきた。
男は佐竹と名乗った。
そして、マスターに一礼すると酒も頼まずにあるお願い事を始めたそうだ。
その時店にいたのは彼とマスターだけ。
盗み聞きしてはいけないと思いながらもついついその話に耳を傾けてしまったそうだ。
その男性は30年以上前に結婚したばかりの奥さんを連れてその店を訪れた。
そして、その時は結婚祝いという事で奥さんが思いついたオリジナルカクテルを作ってもらったのだという。
そして、現在奥さんは末期のガンで自宅で療養をしている。
死ぬのを待つだけの日々。
医師からはいつ死んでもおかしくないと言われており食事も水分も全て点滴でまかなっている。
喋る事すらかなり苦痛を伴う状況で佐竹さんはこう決めたそうだ。
最後に妻が望む事をなんでもしてあげよう・・・。
お金は幾らかかっても構わない。
とにかく最後に嬉しく楽しい思い出を作ってあげたい、と。
そして、それを奥さんに伝えると奥さんは少し考えてこう言ったそうだ。
結婚したばかりの頃に連れて行ってもらったバーでもう一度あのカクテルを飲んでみたい。
実際にあのバーに行ってもう一度・・・。
あんなに美味しいカクテルは後にも先にも飲んだ事が無かったから。
そうしたらきっと一番幸せな気持ちのまま死んでいけると思う・・・と。
佐竹さんは奥さんに
「何を弱気な事を言ってるんだ?お前にはもっと長生きしてもらってこれから一緒に
色んな事をしたり色んな場所に旅行してこれまでの恩返しをさせてもらわなきゃいけないんだから。でも、お前が望むのならあのバーに行ってマスターに頼んでみるよ・・」
そう返したそうだが、その時点で奥さん自身も、そして佐竹さんも奥さんの余命が残り僅かだという事を自覚し永遠の別れを覚悟していたそうだ。
それを話し終えると佐竹さんはマスターに向かって深々と何度も頭を下げた。
「料金がどれだけ高額でも構いません。どうか妻をもう一度この店に連れて来てあのカクテルを飲ませてあげたいんです。妻の最後の願いを叶えてあげたいんです。どうかお願い出来ませんか?」と。
しかし、しばらく腕組みをして眼を瞑りじっと考えていたマスターはそんな佐竹さんにこう返したという。
「無理だな。諦めてくれ。この店のオーナーは俺だ。俺は客を選ぶ。そして選ばれた客だけをこの店の席に座らせ渾身の一杯を出すだけで精一杯だ。そんな大昔に気まぐれで作ったオリジナルカクテルを再現するなんて無理だ。それにそんな思い出作りに協力する理由は無いな」と。
その言葉を聞いた佐竹さんはがっくりと肩を落とし
「そうですよね。マスターのおっしゃるとおりです。私は大変な勘違いをしていたみたいです。この話は忘れてください。本当に失礼な事をお願いしてしまい申し訳ありませんでした。」
そう言うと最後にもう一度深々と頭を下げて店から静かに出ていった。
そのやり取りの一部始終を聞いていた彼はその時いつもとは違う感情が心の底から
湧き上がって来て思わず大声でマスターに叫んでしまったそうだ。
「なんで断るんですか?余命いくばくも無い奥さんの為にあんなに必死にお願いしてるのに!僕は今までそんなヒトデナシが作った酒を飲まされてきたんですか?少しは努力だけでも出来ないものなんですか?そんなに自分が大切ですか?僕が酒を飲み始める様になって初めてこの店に連れられてきた時、マスターは僕にこう言ったんですよ?酒は飲み方によっては毒にもなるが、それでも人生を楽しむには欠かせないものだ。酒は苦しさや悲しさを癒し楽しさを増幅させてくれるんだから。だから俺は死ぬ時には一般好きな酒を飲みながら死んでいきたいと思ってる。それが俺にとっての最も幸せな最後だ・・・って。そんな事も忘れたんですか?いや、あれは単なる口から出た出まかせだったんですか?たいした常連でもない僕がこんな事を言ってもマスターの心には何も響かないんでしょうけど、僕はもうこんな店では二度と飲みたくありません!」と。
するとマスターは、
「お前がそうしたいならそうすればいい。俺が客を選んでいる様にお前にも店を選ぶ権利があるんだから。それが飲み屋でありバーのルールだ。昔から変わらないルールなんだから・・・」
といい終えるとそのまま黙々といつもの様に静かに下ごしらえの作業に戻った。
彼もそれを聞いて「いままでありがと・・・」とだけ言い残して店を出たそうだ。
それからしばらくしてその店の前を通るとそのバーは臨時休業していたそうだ。
少し言い過ぎたかな、とも思ったが、あのマスターが自分の言葉くらいで店を臨時休業などする筈もないと気にしないようにした。
そして。それから2週間ほどの間、ずっとそのバーは臨時休業の張り紙をしたまま店を
閉じたままだった。
そんなある日、仕事中にスマホに電話がかかってきた。
マスターからの電話だった。
驚いた彼はすぐに電話に出た。
電話の向こうからは相変わらず不愛想な声のマスターがこんな事を言ってきた。
お前のせいだからな・・・・本当に苦労させやがって。
お前にも責任があるんだから明日の午後3時に店に来い・・・。
すまんが仕事は午後から早退してくれ。
絶対に遅れるなよ・・・・。
午後7時にはお客様がいらっしゃるから絶対に遅れるな・・・。
それだけだ。
待ってるからな・・・。
それだけ言うと彼の返事も聞かず一方的に電話は切れた。
それから何度か店に電話を掛け直したがマスターが電話に出る事は無かった。
彼も気の良い人間なのだろう。
仕事の予定も入っていたがそれを全てキャンセルして翌日そのバーに行く事を決めた。
当日、午後2時少し前にバーに着くと店の前には「本日、貸し切り」という張り紙が
貼られていた。
おかしいな?と思い店の木製のドアを開けると鍵は掛かっておらず店内には以前よりもかなり痩せた感じのするマスターがじっと腕組みをして店内に流れるジャズを聴いていたが
彼が店に入ってきた事に気付くと一瞬ニヤッと笑い、
さすがは現役のサラリーマンだな。ちゃんと早退して待ち合わせ時間より少し前に
来たのは褒めてやる・・・。
そう話しかけてきた。
一体どうしたんです?
急に電話なんか掛けてきて・・・。
ていうか、なんで僕の電話番号を知っていたんですか?
と彼が返すと、
「前言撤回だな・・・。お前さ・・・最初に店に来た時、俺に名刺渡しただろ?
そこに携帯の番号も書いていったじゃないか・・・。
そんな事も忘れてるようじゃ社会人としてまだまだ半人前だな・・・。」
と相変わらずの辛口で返してくる。
「いや、突然電話かけてきて言いたい事だけ言ってさ。社会人として問題があるのは
マスターの方だと思いますよ?」
と彼が返すと、マスターから
「まあいい。そんな愚痴を聞いてる暇は無いからな。とにかく今回はお前にも責任があるんだ。だから協力して欲しい。あの時の事覚えてるか?奥さんが余命が少ないから願いを叶えて欲しいって言ってきた60歳くらいの男の事だ。バーではよくある事だがその時の記念とか気分で色とか甘いのとかスッキリ系とかでお似合いのオリジナルカクテルを作って欲しいっていう奴。そういうオーダーは俺は基本的には断ってる。だって、その人間の本質とか気分とかなんて他人の俺に分かるはずもないからな。それに一度っきりのカクテルというのも俺のルールに反してるんだ。常に同じ味のものを提供できないものは作るべきではないと思ってるからな。だけど、俺はあの夜の事を薄っすらと覚えていたんだよ。新婚だっていう奥さんのカクテルを飲んだ時の本当に幸せそうな顔。あれはなかなか忘れられるものじゃなかった。まさにバーテン冥利に尽きるってやつだった。だからお前に酷く罵られてから自分で探してみたよ。昔から書いている営業日記を。そうしたら確かにその夜の事が書いてあった。その夜がどんな天気でどんな音楽が流れていて、俺がどんな気分だったかも。そしてそのカップルへの印象とどんな感じでそのカクテルを作ったのか?実はあまりに奥さんが幸せそうに飲んでいたから閉店後に自分でも作って飲んでみたらしくてな。簡単に作り方も書いてあった。だから、何とかそのカクテルの味を再現しようとして試行錯誤してみたよ。店を休業させてな。でもなかなか難しくてな。でもバーテンの意地をかけてなんとか納得できるカクテルが完成した。俺自身の味覚と舌が覚えていた味に忠実に仕上げた。だが、もう時間は残り少ないかもしれん。だからお願いだ。協力してくれ。店の内装も出来る限り30年前の内装に貼り替えた。素人作業だけどな。そして、30年前のあの夜、あのカップルが店にやって来た時、もう1人だけ客がいたんだ。その役をお前にやってもらいたい。俺は妥協は嫌いだ。願いを叶えて開ける為に努力するとしたら細部まで当時の状況を再現したい。これが俺の最後の大仕事になる。なんとか協力してくれないか?」
そう言ってマスターは彼に深々と頭を下げてくれたという。
勿論、彼に断る理由も無く喜んでその魔法の夜の再現を手伝わせてもらう事にした。
少し明るめの内装。
そして、少し軽快なジャズ。
それが当時のこの店に流れている時間を形成していたのだと思うと感慨深いものがあった。
そして、午後7時少し前に店の前にタクシーが停まった。
バーの入り口のドアが開くと其処にはあの時の佐竹という男性が奥さんらしき女性の体を支える様にして立っており佐竹さんは
「この度は無理なお願いをお聞きいただきまして本当に感謝しかございません」
と深々と頭を下げたがマスターは特に気に留める素振りも見せず
「こんばんは。いらっしゃいませ。お待ちしておりました・・・」
と声を掛けると佐竹さん夫婦にカウンター席の真ん中へ座る様に促した。
彼は店内に入って来たばかりの奥さんの姿を見て、カウンター席に座らせて大丈夫なのか?
と心配になったそうなのだがドアが閉まり店内で軽くマスターに会釈した奥さんのそれからの動作はとても死期が近い人間の動きには見えなかったという。
夫の手を借りずにカウンターまで進むと勧められた席へ自分で座った。
そして、
「あの時のカクテルをお願いします・・・・」
とゆっくりと優しい口調でマスターへ伝えた。
「かしこまりました・・・・」
そう言ったマスターは黙ってカクテルを作り始めた。
一体どんなカクテルなのかと興味もあったが彼は出来るだけその夫婦の方を見ないようにした。
自分は当時の夜、偶然同じ店にいた一人の客に徹する事が最優先事項なのだと自覚していたそうだ。
だから彼はいつものドライマティーニではなく、飲んだ事も無いモスコミュールを飲んでいた。
その夜、その客が飲んでいたのがモスコミュールだったと聞いていたから・・・。
しばらくしてマスターがカクテルを作り上げ佐竹さんご夫婦の前に置いた音が聞こえた。
お待たせいたしました・・・。
そう言ったマスターの声はいつもとは比べ物にならない程に優しく穏やかなものだった。
それから暫くの間、静かな時間が流れた。
彼はひたすら無理をしてジャズの音だけを聞く様に努力していたそうだ。
そうして30分程すると、奥さんらしき声で
「本当に美味しかった。あの時と同じ味です。こんなに美味しいカクテル他では絶対に飲めませんね。ありがとうございます。とても素敵な時間を過ごせました。また飲みに来たいと思います。長生きしなくちゃ・・・・」
そう言って少しクスっと笑ってからカウンター席から立ち上がると店の外で待たせていたタクシーに乗り込んで帰っていった。
店から出ていく時、夫である佐竹さんがこれ以上はあり得ない程の深いお辞儀をしていたのがとても印象に残っているそうだ。
そして、佐竹さん夫婦が店を出てタクシーが走り去る音を聞いた途端、彼はそれまで我慢していた涙が止めどなく流れ落ちてきた。
マスターは泣いている様子は無かったがじっと何かを考えている様子だったという。
彼はようやく涙が止まると、
「マスター、良かったね・・・美味しかったって・・・。また飲みに来るってさ。長生きしてくれると嬉しいね・・・。」
とマスターに声を掛けるとマスターは
「バーっていう所では嘘も許されるんだよ。人を傷つけない嘘、そして他人を思いやる嘘なんて飽きるほど聞いてきてるんだよ・・・。」
とぶっきらぼうに返してきたという。
そんな事があって1週間ほど経った頃、マスターからまた電話が入った。
佐竹さんが店に挨拶に来たそうだ。
お店にやって来た翌日の朝、奥さんは幸せそうな笑顔であの世へと旅立った。
幸せな人生でした・・・。
最後に最高の思い出をありがとう・・・。
そう呟く様に伝えた後、薄っすらと幸せそうな笑みを浮かべたまま旅立ったそうだ。
彼はその電話を聞いてまた号泣したが、電話の向こうからもマスターの嗚咽の様な泣き声が聞こえていた様にも思えたそうだ。
その後もそのバーは営業を続けている。
マスターが最後の大仕事になる、と言っていたのが気になっていた彼だがマスターは相変わらずぶっきらぼうに接客し最高の一杯を提供し続けている。
そして、あの夜以来、店には変化があった。
佐竹さんご夫婦が座ったカウンター中央の特等席。
その2席が常に予約席としてどんな客が来ても座らせてもらえないそうだ。
そして、もう1つ、メニュー表に新しいカクテルが加わった。
完全予約制となっているが、どうやら予約すらさせてもらえずどれだけ頼まれても誰にも
提供しないカクテルなのだそうだ。
文句を言う常連客もいるが、あの夜の一部始終を見ていた彼にはそれがとても嬉しい事だと感じているそうだ。
きっとあの奥さんがまたあのカクテルを飲みに来てくれる。
そして、そのカクテルを飲んで最高の笑顔を見せてくれる。
きっとマスターはそう信じているのだ。
だから、その時までそのカクテルも予約席も空いたまま確保され続けるのだろう・・・。
つまりはマスターの自己満足の拘りとして・・・。
彼はずっとそう思っていた。
しかし、どうやらそれは間違いだったようだ。
佐竹さんの奥さんが亡くなられてからしばらくして佐竹さんが1人でバーにやって来た。
その日はどうやら亡き奥さんとの結婚記念日だそうだ。
そして、マスターはあのカクテルを2杯作り佐竹さんとその隣の席。
つまりは永遠の予約席に置いた。
その1杯を美味しそうに飲み干して店を出ていく佐竹さん。
しかし、何故か佐竹さんの隣の席に置かれた亡き奥さんの為に作ったカクテルグラスも
きれいに飲み干されている。
勿論、佐竹さんはそのグラスに触れてさえいないのに。
しかし、マスターも佐竹さんもそれを見て驚いている様子は無かった。
さも当たり前の出来事の様に平然と嬉しそうに笑っている。
言い方を変えれば明らかなる怪異。
でも、少しも怖さを感じていない自分に驚きつつ、逆に微笑ましく感じながら
そういう世界も実在するのだと改めて再認識したそうだ。