沖釣り

俺もかつては釣りに熱中した時期があった。
埠頭や橋の上、砂浜など色んな場所で釣りを楽しんだがやはり最も記憶に残っているのは船での釣りだった。
大物がよく釣れたし何より船の上で食べるおにぎりが最高だった。
小さな船に乗せられて沖の波間を漂っていると本当に別世界で魂の洗濯でもしているかのような気分になった。
しかしある時を境にして俺の中での海は恐ろしく危険なエリアという認識へと変わってしまった。
それは怪談を書き始めて色んな海の怪異譚を知った事だけでなく俺自身が経験した怪異に依るのだが・・・。
海はまだまだ未知の領域でありそれ故ロマンがあり魅力的だ。
だからこそ海は恐ろしい・・・。
そしてこんな怪異も起きているのだ。
 
これは金沢市に住む知人から聞いた話。
彼は40代の会社員で休みがあれば必ず釣りへ出掛けていく生粋の釣りバカだ。
川へイワナやマスを釣りに行ったり湖や池へブラックバスを釣りに出かける事もあるが一番多いのは能登の海だった。
羨ましい事に彼は知り合いから釣り用の小舟を譲ってもらった。
ちゃんとエンジンが付いている2~3人乗りの樹脂製の船だ。
それを使って彼は沖へと出ていき休みの日は一日中沖で釣りを楽しんだ。
全く釣れない日もあったがそれはそれで楽しいようで今思えば最低でも毎月1~2回は輪島へ出向いて船を使い釣りを楽しんでいたようだ。
そんなある日、彼はいつものように朝2時頃に起きて家族を起こさないように静かに家を出た。
勿論、釣りへ出かける為に・・・。
前日にはしっかりと準備をしていたおかげで特に困る事も無かった。
車で自動車専用道に乗り穴水からは左回りのルートを走った。
輪島に着いたのは午前5時すぎだったからそのまま朝日が昇るのを待ってから船で沖へと出発した。
沖に出るといつもの地点で釣りを開始した。
しかしどれだけ待ってもいっこうに釣り竿が反応してくれない。
いつもなら、そんな状況でものんびり過ごす彼だったがその時は何故か大物を釣りたくてしょうがなかった。
そこで彼は釣り場を変える為に船を移動する事にした。
天気は快晴で何の心配も無かった。
彼は思い切って更に沖の方へと出てみる事にした。
しばらく進むと少し波が凪いできた。
その時、突然不可解な現象が起こった。
船が大きく沈み込んだのだという。
その動きはまるで何かが船の上に乗って来たかのようで船は船尾だけが大きく沈む形になった。
何が起こったんだ?
彼はその現象を説明出来なかったがそれでも怪異の類とは微塵も感じていなかった。
彼はそのまま船を進ませ続け少し海水の色が変わった地点で船を停止させた。
ここなら何か釣れるかもしれない・・・。
そう思い自慢の釣り竿を海中へと沈めた。
するとすぐにアタリがきた!
しかも今まで体験した事もない程の強い引きだったという。
彼は素早くそして確実にリールを巻き始めた。
リールを巻けたのはほんの10数メートル・・・。
それ以後はどれだけ力を入れても全くリールが巻き取れなかった。
しかも釣り糸が船の下へ回り込んでいる様になりびくとも動かない。
どうなってるんだよ?
そう思った彼は船の縁から体を乗り出すようにして海の中を覗き込んだ。
海の中はとても澄んでおり深くまで鮮明に見えた。
そして海面に映るのは自分の顔だけだった・・・その時までは!
一瞬、何かが海の底から近づいてきて水面から彼の顔を覗き込んだ。
半分溶けたようになった緑色とも青色とも感じられる男の顔だったという。
次の瞬間、彼の体は海の中へ頭から落ちてしまう。
何かが彼の頭を掴んで引っ張り一気に海の中へと引きずり込んだ。
先程見た恐怖に彼は体が硬直し一気に海底に沈んでいくのを感じた。
このままでは死んでしまう・・・。
ハッとした彼は慌てて体をバタつかせて海上に上がろうとしたがやはり何かに摑まれているように上がるどころか沈んでいくばかり・・・。
もう駄目かもしれない・・・。
そう覚悟した時だった。
一気に彼の体は軽くなり自由も利くようになり一気に海上へと浮上した。
海上へ上がって来た彼は何とかして船に乗り込もうとしたがなかなか上手くいかない。
しかも海底からまた何かが近づいてきている気がして生きた心地がしなかった。
何度もトライしていると突然自分の体が何かに持ちあげられるような感覚を感じそのまま一気に船の上へ転がりながら乗り込む事が出来た。
彼は一気にエンジンをかけてその場所から命からがら港まで戻って来た。
それ以後の彼は船を売り払って港からの投げ釣りだけを楽しむようになった。
最後に彼はこう言っていた。
得体のしれないモノに海の中へ引きずり込まれた時点で俺は死ぬ運命だったと思うよ。
でも、何かに助けられた。
きっと途中で船の中に乗り込んできた視えない何かに・・・。
恐いモノもいれば助けてくれるモノもいる・・・。
でも俺はもう沖へは絶対に出ない・・・。
沖にはあんな恐ろしいモノがいる事が分かってしまったから・・・と。

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