立ち退かない理由

これは以前よく一緒に飲んでいた男性から聞いた話。
彼の旧友に梨田さんという50代後半の男性がいる。
梨田さんは以前、大阪で商社マンとしてバリバリ働いていたが、ある事を契機に金沢市に移住してきた。
商社を辞めた理由は奥さんの病気だった。
体調を悪くして検査入院した時点で既に手が付けられない程に病状は悪化していたらしく、それでも諦めきれなかった梨田さんは国外での治療も考えたらしいがそれを止めたのは他ならぬ奥さん自身だった。
梨田さんからの熱烈なアタックで付き合いだしその後結婚したが子宝に恵まれる事は無かった。
そんな梨田さんにとって奥さんの存在は何よりも大切なものであり、失う事など考えたくもなかった。
だから梨田さんは何度も奥さんを説得しようと試みたが、そんな梨田さんに対して奥さんは
お金の無駄遣いはして欲しくないの・・・。
自分の体の事は自分が一番よくわかってるから・・・。
だから貯金も出来るだけ減らさない様にしてあなたが1人になってからの生活費として蓄えておいて欲しいの・・・。
そう言って逆に梨田さんを諭したという。
それでも何か出来る事は無いか?と考えた梨田さんは東京を離れ空気がおいしく静かに過ごせる場所を求めて仕事を辞め移住を計画した。
そして、考えた末に自分の故郷ではなく奥さんの故郷である金沢市への移住を決めた。
既に両親も他界しており一人っ子だった奥さんは
あなたの仕事優先で考えてもらえばいいから・・・。
と言ってくれたそうだが梨田さんにしてみれば奥さんの余命を少しでも慣れ親しんだ土地で過ごさせてやりたいという思いが強かったようだ。
梨田さんは金沢市への移住を決めた際、どうやって生計を立てていこうかと考えた。
しかし、仕事に忙殺されて奥さんと過ごす時間が削られるのはどうしても避けたかった。
そこで商社勤務で貯めた貯金と退職金を利用して中古のアパートを購入する事にした。
それならばそのアパートに住みながら管理人として家賃収入を得る事が出来る。
そうすれば奥さんと過ごせる時間も好きなだけ確保できるのではないか?
そう考えたという。
物件はすぐに見つかった。
3階建てで部屋数が20戸ほど在る中古のワンルームマンションだった。
既に殆どの部屋が埋まっており空き部屋に悩まされる心配も要らなかった。
梨田さんは偶然空いていた1階の一部屋を夫婦の新居として利用する事にした。
全てが順調で中古のマンションを購入した時に借りた借金も数年で完済する事が出来た。
しかし借金が全て払い終えると、まるでそれを待っていたかの様に奥さんは病状が悪化していきそのまま息を引き取った。
今まで本当にありがとね・・・。
生まれ変わってもまた会えるといいな・・・。
そんな言葉を残して。
それから呆然としたまま小さな家族葬を執り行った。
通夜にも葬儀にも弔問客は殆ど来なかった。
ずっと寝たきりだったのだから仕方のない事だが葬式の間も、そしてそれが終わってからも梨田さんはずっと思い続けていた事があった。
奥さんとは以前からこんな約束をしていた。
家賃収入は出来るだけ借金の返済に充てる事。
入院はせず家で看取ってくれる事。
その時が来ても、延命措置や蘇生措置は行わない事。
私が死んでも出来るだけ泣かない事。
そして
私が死んだらあなたはまた大阪に戻って楽しく生きる事。
出来るだけ泣かないようにと務めたが涙が止まらなかったのは仕方ないとしても他の約束は殆ど守る事が出来た。
しかし最後の約束。
奥さんが死んだらこの土地を離れて大阪に戻るという約束に対してなかなか踏ん切りがつかなかった。
確かに金沢という土地は梨田さん自身にとっては縁もゆかりもない土地だった。
それにこの部屋で生活している限りずっと奥さんの事を思い出してしまい涙が溢れてきてしまう。
それならば、奥さんとの約束通り大阪に戻った方が良いのではないか?
いや、本当にそれで後悔しないのか?と。
そして、悩みに悩み抜いた末に梨田さんはそのままそのマンションの一室で暮らし、管理人を続けていく事に決めたのだという。
理由は奥さんと一緒に過ごした時間を忘れたくなかったから。
もしも、大阪に戻り寂しさに負けて遊びに逃げてしまえば奥さんの事を忘れる事もできるのかもしれなかった。
しかし、それを梨田さん自身が許せなかった。
あんな素敵な女性とはもう二度と出会えるわけがない・・・。
それを誤魔化して生きるなど人間として最低の振る舞いだ。
思い出にすがって生きていくのも悪くない・・・。
それだけの価値がある大切な妻だったのだから・・・と。
そうして奥さんが亡くなられてからもそのマンションの1室で一人暮らしを続けていた梨田さんだったがある時、こんな打診があった。
それはその場所に大規模商業施設を建設する計画が進行しており梨田さんが所有しているマンションの土地もすっぽりとその予定地内に収まっていた。
提示された金額は破格の額だった。
それこそ以前、商社マンをしていた彼ならば、その提示額が如何に常軌を逸した額なのかがすぐに理解できた。
だから以前の彼ならば間違いなく即答で快諾していたに違いなかった。
しかし、梨田さんはその打診を二つ返事で断った。
その後、マンションの住人にも何らかの提示があったのか、そのマンションの部屋は完全な空室だらけになってしまった。
梨田さんが住んでいる部屋を除いて。
その後、更に高額な金額が梨田さんに提示されたらしいがそれも考えるまでもなく二つ返事で断ったそうだ。
何がそれほどまでに彼を固執させるのか?
俺にこの話を聞かせてくれた方も含めて多くの友人たちから
こんなに良い話はなかなか無いぞ・・・。
絶対に売ってしまった方が良い・・・。
と口を揃えて助言したらしいが、梨田さんは笑いながらこう答えた。
あのマンションは絶対に売らないよ・・・。
たとえ1兆円積まれても100兆円積まれても絶対に売る気は無いんだ・・・と。
そして、更に理由を尋ねると梨田さんは少し照れ臭そうにこう答えたそうだ。
あのさ・・・別に信じてくれなくてもいいんだけどさ。
あのマンションには今も妻が生きてるんだ・・・。
2人で住んでた部屋に今もいるんだ・・・。
生前と変わらない姿で・・・。
いや、生前と違ってとても元気になってるかな・・・。
今ではマンションの階段や廊下を掃除したり出来る様にもなったから。
だから僕は今が一番幸せなんだよ・・・。
そんな幸せをお金で売るなんて考えられない・・・。
そういう事だよ・・・と。
本当に亡くなられた奥さんが戻って来たのか?
それとも単なる精神的なストレスによる幻視なのか?
誰もがそう思ってしまうだろうが彼にそんな野暮な事を言う奴はいないそうだ。
彼が幸せを感じているのだから、それだけで良い。
理由や真偽など関係無い。
俺もその考えには同感である。
 
 
 

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