トンネルから見えた景色
世の中には本当に沢山の命が存在している。
哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、植物、微生物などその数は無限と言って良い
程かもしれない。
そんな中で自ら命を絶つ生き物は人間くらいかもしれない。
いや、たしか、他にも自ら死を選ぶ生き物が存在するという話を聞いた事が
あるから、言い方を変えれば、何かに悩んだ末に安らぎや安住の地を求めて
自殺するのは人間だけ、という事になる。
人それぞれ色んな境遇で様々な悩みや苦痛を味わいながら生きているのだから
他人である俺が、自殺について否定するつもりは無い。
しかし、1つだけ言える事は自殺したあと残るのは永遠の苦しみだけだという事。
命を授かった時点で自ら命に終止符を打つ事は禁忌の行為でありどんな悪業よりも
重い罪人と認定されてしまうらしい。
ただ、俺も過去の経験から自殺した者が本当に自分だけの判断で自殺を決行した
というパターンは決して100パーセントではない。
つまり、自殺者の霊は弱っている者を自殺に誘う・・・ということだ。
これから書くのはそんなお話になる。
彼は現在40代の会社員。
今まで何度も会社を辞めようかと思ったと言うがそんな中でも過去に一度だけ
本気で自殺を考えた事があるそうだ。
彼はその時、入札に失敗し人生の岐路に立たされていた。
会社の先輩と一緒に大口の入札説明会へ出向いた。
元々その案件はその先輩と2人で長い期間をかけて先方と内容を詰めてきた。
つまり彼の会社が他社よりもかなり先行しており、ある意味出来レース的な
入札だったようだ。
入札先は県という事になり金額もそれなりになる。
しかも、既にメーカーとの打ち合わせや特価申請も終わっており他社から見ても
彼の会社が落札する事は明白だった。
そのまま普通に入札を行えば何も問題は起こらなかった。
しかし、そんな時にはついつい心に隙が出来てしまうのかもしれない。
入札の説明会が終わった後、入札に参加する業者で近くの喫茶店に集まる事に
なった。
そこで話題になったのは所謂、談合というものだった。
彼と先輩はそんな誘いなど断れば良かった。
しかし、確かに談合すればより安心して入札できる。
彼と先輩は談合の誘いに乗ってしまう。
誘いをかけてきたのはお互いに良く知っているライバル会社ばかりだったのだから。
しかし、入札メンバーの中には彼の会社に恨みを抱いている会社もあったようだ。
結果として、その会社が談合を新聞社にリークしてしまい大問題になり入札
自体が中止された。
勿論、彼も責任を感じていた。
しかし、彼を失意のどん底に突き落としたのは先輩の裏切りだった。
全ては彼一人がやった事です・・・。
僕は談合の事など全く知りませんでした・・・・。
会社の上層部から問い詰められた先輩はそう言って1人難を逃れた。
彼はほとぼりが冷めるまで・・・という名目でかなり遠方の支店に飛ばされたという。
もう仕事などどうでも良くなっていた。
転勤になった支店にも一度だけしか顔は出さず、社宅で1人悶々とした生活を
送っていた。
最初は会社や先輩、そして入札の罠にはめた会社を恨むばかりの日々だった。
しかし、やがてそんな事はどうでも良くなっていった。
テレビを観てもゲームをしていても全く楽しくなく逆にイライラとした気持ちばかりが
増幅されていく。
しかし、ある時、
何の為にこんなに苦しまなければいけないのか?
と感じた時、生きてい事が馬鹿らしくなったという。
ずっと会社を休み、それでも誰も彼に連絡などして来ない。
彼は壁だけをぼんやりと眺めて1日を過ごした。
そうしているうちに、久しぶりに外へ出たくなり何も持たずに歩き出した。
転勤先の町並みは彼にとってはまるで異世界の風景に感じられた。
なんで俺はこんな見知らぬ街を歩いているんだろ?
そう考えた時、彼は自分が死に場所を探して歩いていることに気付いたという。
どれだけ歩いても喉も乾かなかったしお腹も減らない。
疲れる事も無かったし足が痛くなることも無かった。
死ぬ覚悟をすると人間は余計な事は感じなくなるんだ・・・。
彼は初めてそんな事に気付き、それでも何処かホッとした気分だった。
やっぱり死ねば楽になるんだ・・・。
何も食べなくても良いし病気や怪我に悩まされる人も無い。
それに何かに裏切られて絶望し心が苦しくなる事も無いのだ、と。
そうやってぼんやりと歩いていると前方に小さなトンネルが現れた。
短いトンネルなのに何故かトンネルの出口からの景色は見えなかった。
彼はようやく死に場所を見つけられた様な気持ちになりホッとしながらトンネルの中
へと進んだ。
トンネルの中はライトも無く薄暗かった。
しかし、前に進めない程の暗さではなかったので彼はそのまま歩を進めた。
そうして30メートルほど進むと出口へと辿り着いた。
出口からの景色を観て彼は驚きその場に立ち尽くした。
其処には彼が幼い頃住んでいた街並みが広がっていた。
いや、それだけではない。
彼が良い思い出として記憶に留めていたシーンの風景がそのまま残されていた。
そして、そこに居る人たちはじっと彼の方を見てにっこりと楽しそうに
笑っていた。
此処はいいぞ・・・。
此処は楽しいぞ・・・。
此処には苦しみなんか無いぞ・・・。
そして、
此処には何も無いから心配は要らないぞ・・・。
そう口々に楽しそうに話しかけてくる。
しかし、その中に1つだけ異質なものがあった。
それは見間違えではなく明らかに彼が子供の頃に飼っていた大好きな愛犬の姿だった。
愛犬は悲しそうな顔で必死に首を横に振り続けていた。
愛犬は彼が中学生の頃に亡くなっていた。
だから彼は愛犬との再会に歓喜していた。
しかし、愛犬は明らかに彼に向かって
こっちには来るな・・・と言っているとしか思えなかった。
それでも、このまま進もうと足を動かそうとした時、何かが彼の足を掴んでいる
のがわかった。
それは彼が幼い頃に亡くなった優しい祖母の姿だった。
トンネル内の地面から上半身だけを出して必死に彼が前へと進むのを防いでいる
のがわかった。
彼は涙が止まらなくなった。
何かそんなに涙を流させるのかは自分でも良く分からなかったという。
それでも彼は、
わかったよ・・・・。
そう言って彼は180度方向転換するとトンネルの入り口に向かって歩き始めた。
トンネルの入り口から見える景色は出口から見えた景色とは違い、彼に何も
感動を与えてくれるものではなかった。
それでも彼はそのまま歩き続けトンネルの入り口から外へと出た。
振り返るともうトンネルは消えていたという。
せっかくのチャンスだったのにな・・・。
そう思ったが、彼はそれで良いのだと自分に言い聞かせた。
大好きだった愛犬と祖母が必死で繋ぎとめてくれた命。
とりあえずはもう一度生きてみようと考えることが出来たという。
今ではそれなりに幸せな家庭を持ち嫌な事もあるが楽しい事もたまにはあるという
人生だが彼は生きていてよかったのだと実感しているという。
そして彼は最後にこう話してくれた。
トンネルの向こう側にいた人達の笑顔は笑ってはいるが楽しいとか嬉しいとかを
感じられるものではなくもっと無機質で邪悪なものに感じられたんです。
それに、彼らはこう言ったんです。
此処には何も無いから心配は要らないぞ・・・って。
心配が無いのは嬉しいですけど何も無い時間なんか価値はありません。
あのままトンネルの出口から出てしまったら僕は死んでいたんだと思います。
それを止めてくれたのが愛犬と祖母なんです。
あのままトンネルから出てしまったら一気に暗闇に落とされて想像を絶するほどの
孤独と苦しみの中を永遠に過ごさなきゃいけなかったのだと感じています。
だから、僕はもうどんな事があっても自殺したいなんて考えない。
そしていつか寿命を全うしてあの世に言ったら愛犬と祖母にお礼を言わなくちゃいけない。
そう思っています・・・と。