バス停のスムージー
和歌山県にお住いの篠原さんは若い頃、自転車で日本一周した事があった。
お金に余裕などあるはずもなく彼は野宿を主体とした旅行になる事は覚悟していた。
「日本一周中」という旗を立てた自転車で走っていると時折思いがけない親切や援助に出会えることもあったらしくとても貴重な体験になったそうだ。
そしてこれは信州を走っている時に体験した怪異だそうだ。
その頃も9月だというのにまだまだ暑い日が続いていた。
その日も気温としては35度程度だったらしいが体感的には40度を遥かに超えている感じがして熱中症にならないように気を付けながら走っていた。
お金は節約したいが自動販売機を見つける度にペットボトルの飲み物を買ってがぶ飲みした。
朝も昼も夜も食事は菓子パン1個だけ。
一日中、自転車を漕ぎ続けてたったそれだけの食事では体力を維持する事も出来ないと思うがそもそも疲れで食欲も無く、ただ若さに任せての無理な旅行なのは間違いなかった。
彼はいつもは公園や駅などで寝袋にくるまって寝る事にしていた。
しかしその日はどうしても越えなければいけない峠がありその地点で体力を消耗し過ぎた。
予定では峠を越えた地点にある駅で野宿する予定だったが夕方には体力の限界から全くペダルが漕げなくなり峠越えを断念した。
そして予定を変更してその峠の途中の地点で野宿を決めたという。
彼は自転車を降りて、押して歩きながらとぼとぼと山道を歩いていく。
不思議なくらいに車が1台も通らず人に出会う事もなかった。
休憩しようと思って日陰を見つけて逃げ込んでも蒸し暑さが息苦しいほどでその場で腰を下ろす気にもなれなかった。
・・・どうしてこんなに誰も通らない道がアスファルト舗装されてんだよ?
・・・自動販売機の1台くらい設置しといてくれよ・・・。
そんな文句ばかりが口をついた。
ジージージージー・・・ジージージージージージージージージージージージー
聞こえるのは激しく鳴き続けるセミの声と自分の苦しそうな息遣いだけ。
セミがこんなにうるさいのだと初めて不快に感じられた。
彼は次第にふらふらになりながら歩いていたのだろう。
何度も転び、力なく地面に体を叩きつけられた。
それでも深呼吸をしてからゆっくりと立ち上がり再び歩き続けたのは、どうやらその時の彼は本気で死というものを意識していたから。
・・・こんなルートを選ばなければよかった。
・・・もっとちゃんと食事をとっていれば。
そんな事ばかりが頭に浮かんだが全ては後の祭りでありどうしようもない事は彼自身が一番よく分かっていた。
・・・人間が死ぬときっていうのはこんなものなのかな?
・・・こんな場所で死んでも両親にちゃんと訃報が届くのかな?
そんな事ばかりが浮かんでは消えていく。
峠の途中で体力の限界を感じた時には、自分の無謀さに腹が立って仕方なかったが、その時にはもう何とか命を繋ぐことで必死だった。
・・・どこかに水は無いのか?
・・・どこかに体を横にして休める処は無いのか?と。
すると前方の道路わきに小屋のようなものがある。
気力を振り絞って近づいてみるとそれは木製の小さなバス停だった。
中には長椅子があり体を休めそうだったから彼は迷うことなく自転車を外に立てかけて中へと入った。
バス停の中にはきれいに掃除されていて少しだけ涼しく感じられた。
彼は倒れ込むように長椅子に座ると全体重を背もたれに預けた。
既に外の様子からは日が傾き始めているのが分かったがその時、彼の頭の中には
・・・俺は此処で死ぬのかな?
・・・誰か助けに来てくれないかな?
そんな事ばかりがよぎっていく。
そして疲れのせいか、彼はそのまま少しだけ眼を閉じた。
どれだけ眠ったのだろうか?
車のエンジン音が聞こえて彼は眼を覚ます。
外は完全に暗闇になっておりその中に1台のバスが暗いライトを点灯させて停まっていた。
バスは右に向かって走って来ており明らかに此方のバス停の前に停まったのではなかった。
しかし、先ほど見た景色の中に対面にバス停など無かった。
しかし、そんな事はどうでも良かった。
・・・このバスに乗せてもらえれば死なないで済むかもしれない!
彼は気力を振り絞って立ち上がるとふらふらとバスに近づいていく。
バスは誰かを待っているのか、ずっと停まったままでいてくれた。
バスの運転手はじっと前を向いたままで彼に気付いてくれなかったが、窓をノックするとようやく彼に気付きドアを開けてくれた。
彼は乗降口の階段を一段上って運転手に声をかけた。
・・・すみません・・・このバス、どこまで行きますか?
・・・乗りたいんですけど自転車も一緒に乗れますか?と。
すると彼の顔をじっと見つめた後、
・・・すみませんね、このバスには乗れません。
・・・だから普通のバスを待ったら如何ですか?
彼は咄嗟に
・・・じゃあ、自転車は乗せてもらえなくてもいいんで・・・。
そう返したが運転手は首を横に振るだけ。
・・・どうしてですか?
・・・お金はちゃんと払いますから!
そう返したが反応は同じだった。
彼としては藁をも掴む思いだったから強引にバスの中に乗り込もうとしたが運転手はそれを制止した。
・・・あなたはこのバスに乗れませんよ。
・・・いずれは乗られるかと思いますが今は乗る事はできません。
そう言われてしまい、切羽詰まっていた彼は思わず大声を上げた。
・・・乗車拒否なんてしていいんですか?
・・・それにどう見たってこのバスは満員で乗せられない状態じゃないですよね!
そう言って客席の方を見た彼は思わず固まった。
客席にはバラバラに老若男女が6人座っていたがその誰もが生気も無く死んだような虚ろな顔をしていた。
それを見た瞬間、彼は
・・・このバスには乗ってはいけない・・乗ったら戻れなくなる・・・。
そう感じて後ずさりする様にバスの乗降口を降りた彼は静かにバス停に戻った。
彼がバス停に戻ってからもずっとバスは停まったままだった。
バスのリズミカルなエンジン音が睡魔を呼び、彼はまた眠りに落ちた。
・・・もしもし・・・もしもし・・・。
そんな声が聞こえてハッと眼を開けた。
目の前には制服を着た先ほどのバスの運転手が立っており彼に顔を近づけてきてこう言ったという。
・・・バスに乗りませんか?
・・・予定していた方が来られなくなったので代わりに如何ですか?と。
バスの運転手の顔は先ほどまでと打って変わって優しく笑っていた。
彼はその笑顔に「お願いします」と答えて立ち上がろうとした時、バスの窓が眼に入ったという。
6人乗っていた乗客全員がこちら側の窓に貼りつく様にして彼の様子を覗き込んでいた。
その顔は何かを企んでいるかのようなニタニタとした気味の悪い顔だった。
・・・やっぱり一緒にいきましょうよ!
そう言いながら運転手が強引に引っ張ってきた手を振りほどいた瞬間、彼は一気に眠りに落ちた。
そうして再び目を覚ました時、彼は道路に倒れ込んでおり救急車の隊員が必死に彼に呼び掛けている状態だったそうだ。
彼はしばらくの入院の後、無事に退院したらしいが、あの時、あのバスに乗せられていたらどうなっていたのか?については考えたくないそうだ。
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