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悪魔祈禱書【夢野久作・オマージュ】

これは、私の友人が大学時代に体験した話だ。

彼は文学研究をしていた頃、東京のある古本屋に通っていた。小さな店で、店内はどこか陰気で、いつも埃の匂いが漂っていた。店主は無口で陰鬱な男だったが、時折話すと妙に話が長くなる癖があった。そんな店に彼が通い始めたのは、何度か足を運ぶうちに、他では見つからない珍しい本が揃っていることに気づいたからだ。

ある日、雨がしとしと降る夕方、彼はその古本屋を訪れた。店内は静まり返っており、客は彼一人だけだった。薄暗い灯りの下で店主が一冊の本を磨いていた。表紙は黒い革で、古びた銀の飾りがところどころ剥がれている。それは明らかに異様な雰囲気を漂わせる一冊だった。

「先生、これ、見ていかれますか?」
店主はそう言って、彼にその本を差し出した。彼は迷ったが、学術的興味に負けて本を手に取った。

「これは……聖書ですか?」彼が尋ねると、店主は不気味に笑った。
「ええ、まあ普通の聖書かもしれませんが……これが持っている歴史を知れば、普通ではないと感じるでしょうね。」

彼がページをめくると、見たこともない文字や象徴が描かれている部分があり、その箇所はどこか不気味に光って見えた。さらに読み進めると、ところどころに英語の注釈があり、どうやら呪文のようなものが書かれていた。

店主は、ゆっくりと話し始めた。

「その本はね、悪魔信仰に関わる聖書だと言われているんですよ。18世紀のヨーロッパで、悪魔崇拝者たちが密かに作り上げたものでしてね。中には悪魔への祈りや、禁断の儀式の詳細が書かれていると言われています。ある者は、それを読むと人の心が蝕まれ、やがて破滅するとも……」

彼は薄笑いを浮かべながら続けた。「まあ、そんな話は作り話かもしれませんがね。」

友人はその話に不安を覚えながらも、本をその場で購入した。どうしてもその内容を詳しく調べたいという強い衝動に駆られたのだ。それが彼の悪夢の始まりになるとは、その時はまだ思いもしなかった。

数日後、彼の周囲で不気味な出来事が次々と起こり始めた。家に帰ると、ドアの鍵が勝手に開いていたり、夜中に妙な囁き声が聞こえてきたりする。最初は疲れのせいだと自分に言い聞かせたが、夜になると本棚からあの黒い聖書が何度も床に落ちているのを見て、恐怖が膨らんだ。

ある晩、友人はついに恐怖に耐えきれず、その本を調べ直そうと決意した。本を手に取り、再びページをめくると、彼の名前がそこに記されていることに気づいた。まるで、あの聖書が彼を待っていたかのように──。

驚いてそのページをさらに読み進めると、今度は「献身の儀」という章が現れた。そこには、悪魔に魂を捧げる方法が詳細に書かれており、その儀式に必要なものの一つが、「読者自身の名」と記されていた。

「まさか……そんなはずは……」彼は呟きながら、本を閉じた。

その瞬間、部屋中の明かりが一斉に消え、窓の外から何かが這い寄ってくるような音が響き始めた。友人は息を飲み、振り返ることができなかった。背後から何者かの気配が、じわりじわりと近づいてくるのを感じたのだ。冷たい汗が背中を伝い落ち、心臓の鼓動が耳の中で轟く。

「返せ……」

誰かが耳元で囁いた。低く、どす黒い声だった。

友人は恐怖に震えながらも、振り向かずにはいられなかった。背後にいたのは、あの古本屋の店主だった。しかし、その顔は……歪んだ、別の何かに変わっていた。

翌朝、彼は古本屋に向かい、本を返そうとした。しかし、あの店はもう跡形もなく消えていた。まるで、最初からそこには何もなかったかのように──。

これが、友人が経験した奇妙な話だ。彼は今でも、あの時のことを思い出すたびに怯え、あの黒い聖書がまだどこかにあるのではないかと、悪夢にうなされ続けているらしい。


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