海と共に 第四話 ー星の海編ー
リリーと知り合って1ヶ月ほど経った頃。こころはいつものように学校へと足を進めていた。
じりじりと照りつける真夏の太陽にチラリと視線を送り、ため息をつく。すがすがしいほどに青い空が、こころをじっと見つめていた。
ーーああ、ずっとあの優しい人魚と一緒にいたい。
学校にも、家にも居場所のない私を受け入れてくれた、あの海と人魚が恋しい。いっそまた海に身を投げ、また彼女に助けてもらおうか。
「そうすれば、この地獄から解放されるかも……」
「地獄って?」
突然声をかけられ、こころは慌てて振り返る。そこには、小柄な少女が立っていた。
こころと同じ制服を着た彼女は、体の大きさに合わない望遠鏡を背負っていた。ショートボブカットの髪に人懐っこそうな笑顔を浮かべているその少女は、小首をかしげてこちらを見ていた。
「水無月こころちゃん、だよね? 最近よく海岸に行ってるみたいだけど、今言ってたことと関係あるの?」
「別に何も……」
こころはできるだけ無表情に、動揺を隠すように答える。
こころは学校の人達とはほとんど誰とも話さないと決めている。他人と距離をとり、自分で引いた線の内側にいる自分を守るために。
それが自身の孤独に結びついていることは、分かった上で。
「とにかく、貴方に色々と詮索される筋合いはないわ。じゃあ」
こころはふいっと視線を外すと、つかつかと通学路を進んでいった。
「……水無月こころちゃん、面白そうな子」
無邪気な笑顔を浮かべている彼女は、好奇心に満たされていた。
夕日が海に飲み込まれて、空が赤からだんだんと紫に変わっていく頃に二人は話していた。さざ波の音が響いては消えていく。
こころはその辺に転がっていた小枝でいじいじと砂浜をつついていた。
「こころ、なにかあった?」
「……毎日この砂浜に来ていることが学校の人にばれてたの」
「そうなの……まあ、いずれはバレてしまうとは思っていたわ」
こころがリリーの方に顔を向けると、リリーは水平線を見つめ、つぶやいた。海風でリリーの美しく長い髪がキラキラと輝きながら揺れている。
二人はしばらく無言で遠くを見つめる。やがて空には一番星が輝き始めた。
「……どこにも行きたくない」
ぽそり、とこころはつぶやいた。
「学校にも行きたくないし、家にも帰りたくない。私の居場所はリリーのいるこの海よ」
「……ねえ。こころはどうして、家に帰りたくないの?」
「それ聞いちゃう?」
「聞かないと相談に乗ってあげられないわ」
「……」
こころはしばらくリリーを見つめていたが、顔を伏せてぼそぼそと話し始める。
「お母さんが、嫌いなの」
「おかあさん?」
「うん。この島に連れてきてくれたことは、感謝してる。けど……男の人をとっかえひっかえして、毎日呑み歩いて、ベロベロになって帰ってきて……朝早くに帰ってきて、夜まで死んだように寝てるの」
「不倫しているの?」
「……私がこの島に来る前に、お父さんと別れたの。お父さんは『あの人』のこと、不純だって言ってたわ」
「……そう」
「この間ね、私が小さい頃に友達からもらった宝物を勝手に売って、お酒代にしようとしてた。私が怒って叩いたら、思いっきり蹴りを入れられたわ」
「……」
「人魚に相談事してるの?」
突然女の子の声がしたのでその方向を見ると、今朝の女子学生が道路からこちらを見ていた。背中には朝も背負っていた望遠鏡がある。
「え、あ……リリーどうしよう」
「今更逃げたってどうしようもないわ」
リリーは覚悟を決めたように目を伏せる。が
「わー! 君って人魚なのね! あたし初めて見た! ね、ね! 身体はどうなってるの!?」
ものすごい勢いで近づいてきた少女は、リリーを見て目を輝かせる。
「ね、ね! ウロコのところさわってもいい? いいよね?」
「な……何なのあなた。きゃ!しっぽは触らないでちょうだいっ」
「ちょっと! リリーが嫌がってるじゃない、やめて!」
なんとか彼女の興奮を落ち着かせると、その少女はぺこりと頭を下げた。
「ごめんねー、人魚ってはじめて見るから、つい興奮しちゃった!」
「本当に……この島には押しの強い子しかいないのかしら。どっと疲れたわ」
リリーは元々白い顔をさらに白くして、その場でうずくまっている。
「あ、あの。貴方は一体?」
「あたし? あたしはももせ、笹原百星! よろしくねー」
「え……今貴方、笹原って言った?」
「ササハラ?」
――笹原。その名字はこの島に伝わる伝承の一族だ。
その伝承によれば、この島で「笹原」と名乗る者は全員「魔女」や「魔法使い」であるというファンタジーチックで非現実的な存在だと、こころは耳にしていた。
現代の笹原一族はこの島を牛耳っていると言ってもいいぐらい、この島の実権を握っている。
「そうそう笹原。でもねー、別に魔法が使えるわけでも何でもないよ? ただ、普通の人より普通ではないものを引き寄せてしまうし、その力に魅せられてしまう、ってことはあるかな」
「普通ではないものって」
こころは横目でとリリーを見た。リリーは少し海の方へ後ずさりをする。
「そ! そこの人魚さんのことはとっても気になるわ。それに……水無月こころちゃん、君のこともね」
「え、私?」
「そう」
星のごとくキラキラとしていた百星の瞳が、深い深い闇をはらんだように光を失っていった。まるで、星も見えない怪しげな夜の闇の中のように。
「君が心から望んでいるもの、それはなに? 親からの愛? 死? 違うでしょ。君が望んでいるもの、それは――」
「そこまでにしてちょうだい」
リリーのいつもの抑揚のない声に、力がこもっていた。リリーの周りには水がいびつなしゃぼん玉のようになって浮かんでいて、百星を威嚇するようにうごめいていた。
「リリー……」
「あらら、こころちゃんにはしっかりボディーガードがついちゃってるのね。ざーんねん」
百星はこころから少し離れると、敵意はないよとひらひらと手を振る。
「あたしは別にこころちゃんに危害は加えないわ。ニンゲンだし、この島の住人でもある。むしろ守るべき存在だし」
「……本当に?」
「あーもう怒らないで人魚さん、大丈夫よ」
「……そう」
リリーがため息をつくと、浮遊していた水の塊がふっと消え去った。
「でね! 実はあたし、こころちゃんとしたいことがあるの」
「したいこと?」
「そ! こころちゃん、空を見てみて」
「空……?」
こころが見上げると、そこには満天の星空が広がっていた。都会では到底見られない天の川がくっきりと見え、星々がそれぞれ自身の美しさを主張するように輝いていた。
「こころちゃんはこの島の海が好きなんだろうけど、私はこの星空が好き。つらいことも、イヤなことも、この星の海を見るたびに忘れられる……」
「そうね、ほんとにキレイだわ」
「でしょ!?」
こころが隣ではしゃぐ百星を見る。百星の瞳は、満天の星空を写してキラキラと輝いていた。
「笹原の名字を冠するものはこの島を守る勤めがある。魔女とか魔法使いとか言われて忌み嫌われようとも、私はそうしたい。たとえ――それがどんなに辛くてもね」
「百星さんは」
その先の言葉を、こころは飲み込む。強くてうらやましいなんて、こんな星空の下で言うのは似合わない言葉だと思ったから。
リリーはそんな二人を眺めていた。少しだけうらやましげな表情で。
しかし、表情を途端にくもらせたリリーは道路の向こう側の茂みがうごめくのを見て、こう言った。
「待って……何か来るわ」
「えっ」
茂みから大きく揺れると、黒い何かが飛び出してきた。それは漆黒の翼を背中に持つ、あの男だった。
「やあお嬢さん方、こんな夜更けにどうなさったんです?」
「吸血鬼!」
「あなた、懲りてなかったのね」
「ああ……この間はよくもやってくれたね、人魚姫のリリー様」
クックッと笑う吸血鬼と、怒りを露わにするリリーは、月明かりに照らされてにらみ合うのだった。
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