酉水家と私達

  私は女に生まれた。
 ただそれだけなのに、父も祖父も私は男より劣り、男より下の存在だと言う。
 女はただ男の言うことを聞き、男に媚びへつらい、ただただ男を立て男の身の回りの世話をするために生きろ、と。
 このご時世になんと時代遅れで、古くて、苔のこびりついたつまらない考えだろう、と私は思う。
 私の家では特に、男尊女卑の考え方が色濃く残っていた。それはまるで、私達にかけられた呪いのようだ。
 男に生まれればよかった? それは違う。私は女に生まれて後悔していない。後悔をしては家の男達に負けを認め、男の奴隷と化してしまう。
 私はいつもそれに全力で抗った。そんな私を家の男達は可愛くない、扱いにくい、変わりものとして接した。
 そもそも、どちらが偉いとかいう話に性別は関係ない。それが私の考えだ。ただ性別という区別が存在していて、男に得意なことやできないことがあり、また女にも、という話だ。
互いに補い合い、支え合い、理解し合えばいい。その方がお互い気持ちよく生きることができる。幻想だと言われても、それに近づけていけば現実になる。
 私はこの家の呪いを解かなければならない。
 私は心の底から願った。この呪いを解く力が欲しい、と。

 母はそんな私の思いを一番理解してくれた。母は誰にも分け隔てのない深い愛情を注ぐ心根の優しい人。
 同じ女性として、同じ立場として私の気持ちを優しく包み込んでくれた、清らかな人。
 私を気に入らず嫌がらせをし、嫌味をぶつける私と年の離れた弟にも、母は優しい愛を注いでいた。
 そんな私達によくしてくれた優男の執事がいる。彼はある秘密を抱えていた。
 けれど、鋭い感の持ち主の母の前では、隠せない。

私が4歳の頃のこと。
「ねえ、貴方。料理長が好きなの?」
「……っ!?」
 母の部屋で私と母が3時の軽食を終え、カトラリーを下げようとしていた執事は、見る見るうちに顔を赤くする。私はその様子を興味深げに見ていたのを覚えている。
 若い執事の顔は、これ以上赤くならない所まで赤くなったが、次にはさーっと顔を青白くした。冷や汗が頬を伝っていく。
 彼はしばらくわなわなと震えていたが
「も、申し訳ありませんっ!」
 その場で深く頭を下げた。彼の身体は小刻みに震えている。張り詰めた空気に、幼い私はただただ驚いていた。
母はいつもの柔らかい口調で
「素敵ね」と言った。
「……え?」
「恋をするって、素敵ね」
 母はふわりと笑う。窓辺から差す柔らかな光のように。
「その純粋で綺麗な思いは本物でしょ?……ねえ、若い執事さん。顔を上げて」
 ゆっくりと母の方へ向けられた彼の顔は、少しの安堵と驚きが入り混じっていた。一筋の涙が、彼の頬を伝っていた。
「……気持ち悪く、ないのですか」
「いいえ」
「変だ……と、思わないのですか」
「全然そんなことはないわ」
「……本当に、いいのでしょうか……」
 最後の方の言葉は必死に絞りだした声で、裏返っていた。
「ねえ、おかあさん」
 母のスカートの裾を引っ張ったその感触を、今でも覚えている。柔らかい素材のピンク色のスカートだった。
「なあに?」
 母の右手が私の頭を優しく包み込んだ。とても温かかった。
「おとこのひとは、おとこのひとのこと、すきになっちゃだめなの?」
「いいえ」
「じゃあ、なんでしつじさん、ないてるの? だめじゃないんでしょ?」
「そうね……世の中にはいろんな人がいるからね。ダメって言う人もいるわね」
 母のその表情の意味は分からなかったけど、今から思えば父達のことを考えて言ったのだろうと、今では思う。
「玲は誰が好き?」
「んーとね、おかあさんと、しつじさんがすき! だって、だってね。やさしくてかっこいいもの!」
「……!!」
 青年は力なく呻き、顔を覆った。手の平から零れ落ちる涙が、床を濡らした。
 嗚咽を漏らす彼を、母は優しく抱きしめた。背中を優しくたたいて。私もそのまねをして頭を撫でた。
 しばらく彼は泣いていたが、落ち着いてきたのか言葉を紡いだ。
 幼少期から感じていた体の違和感のこと、初恋相手から投げられた心ない言葉、悩み、苦しみ、葛藤ーー
「……僕、最初は料理長のことを好きになるつもりはなかったんです」
「うん」
「でも、とても優しい人で……気さくで、かっこよくて、素敵だなって」
「うん」
「でも、僕は男だから、女の人が好きって……自分に嘘をついてまで……そう思おうと、していました」
「うん」
 母はまるで、自分の子供を慰めるように優しく相槌を打つ。優しく背中を撫でながら。
「……お2人はとても優しい。どうして、こんなにも……」
「ねえ、覚えてる? 貴方私達にお花をくれたでしょ」
 母は軽やかに笑う。
「玲にはフリージアの花。ワタシには白いアネモネの花。とても素敵だったわ」
「……そんな前のことを」
「玲、ちょっとお耳ないないしようね」
「?」
 聞こえにくくなったけど、何となく母が言っていることが子供ながらに分かっていた。それでも、子供に聞かせたくない、母の胸のうちの言葉だったのだろうと思う。
「……この家の男性は皆、ワタシ達女性に厳しいでしょ。古い考えを執念深く守る……執事長でさえそうだもの」
「……はい」
「だから、貴方からの純粋な好意がとても嬉しかったの」
母の手が、私の耳から離れた。
私は母の顔を見上げた。母の顔は、慈愛に満ちたいつもの表情だった。

 その後も私と母は、今までと変わらず彼からの愛情を受け取っていた。どことなく闇を感じていた彼の顔は、いつしか生気を帯びたような気がする。彼に必要だったのは理解と、支えだった。
 彼はその気持ちを料理長に告げることはしなかった。私達も彼の気持ちを大事にして、無理にその恋を成就させようとしたりしなかった。
 ほどなくしてその料理長はこの家から去り、故郷へと戻った。幼馴染の女性と結婚し、小さな飲食店を開くために。

 私が15の時のことだった。
 どこでバレたのか、それとも元々と知っていたのか。
 父の地響きのような低い声が、執事を責める声がドア越しに私の耳に届く。
 偏屈で古く凝り固まった考えの父は、彼のような人のことを不快だといわんばかりの目で見ているのは、私も知っていたが……。
 心根の優しい若執事の怯えようは、言葉では表せないだろう。
 息を殺し、父への怒りを抱えて聞き耳を立てる私の肩を叩く感触がした。振り返ると、父に告げ口した女狐がいた。
 全て、嘘だったのだ。執事に向けていたあの可愛らしい笑顔も、寄せているように見せていた好意も。その腹は、地獄の底よりもどす黒いのだろう。
「玲様、何をされているのですか?」
「……」
「何とおっしゃいました?」
 ナントオッシャイマシタ、だと?
「聞こえなかったかしら。その面の皮を剥いでやろうかクソ女。と言ったわ」
 メイドは今までに聞いたことのない甲高い笑い声を上げ、悪魔のような歪んだ笑顔で
「……まあ、ひどいお言葉」
と宣った。

 メイドは私の首根っこを掴み、父の部屋へと入る。
「玲様!」
 私の名を叫んだ若い執事の左頬は、真っ赤で膨れ上がるほどだった。
「お嬢様がワタクシに向かって耳を疑うようなことを口にされましたので、お連れしました」
「ふむ……そうか。玲よ、使用人は大事にしなさいと言ったはずだが」
「……そこの彼も大事な使用人です。お父様はどんな酷い言葉を浴びせて、どんな酷い暴力を振るったのでしょうね」
 父への心からの反逆だった。声が緊張で震えたけれど、私はもう怖くない。私は祈るように目を閉じる。
 執事は元々大きな目を驚きでさらに見開いていた。
「一家の主に向かって……」
 父が私のところまで歩み寄る。靴音が鈍く響いた。それは、私を責めるかのように。
「自分の立場を分かっているのか、玲!」
 父を睨む。軽蔑と、不快感と、嫌悪の意味を視線にのせて。
 父は私の頬に向けて手を振り上げた。
『そこまでだ、武男』
 父は私の口から零れ落ちた、私の声ではない声に身体を硬直させる。私はそっと意識をそれに委ねた。昨夜、私に力をくれた優しいヒトに。
「……貴方は」
 父の声が少しかすれている。
 メイドの顔にはもう笑みは浮かんでいない。驚愕、それだけだ。
 若い執事から後で聞いた話だが、私の顔には紅の化粧が浮かんでいたそうだ。酉水家に代々受け継がれている巻物に描かれていた、「酉」の紅が。
「なぜです! 貴方は……この家の長男だけに力を託すはずだ! なぜ玲を選ばれたのですか!」
『その事だが』
 私は自分の眉間にしわが寄った感触を感じた。
『……何度か継承について告げに行った』
「酉」は冷ややかな目つきで言葉を紡ぐ。
『貴様、妻子があるというのにそこな女と体を重ねておったな。幾晩も乱れて……元々期待はしていなかったが』
 ああっ、とメイドは叫んだ。胸元の小さな赤い印の主は、あろうことか一家の長であったのだ。
『玲が私に教えてくれてな……私が眠っている間の、この家の腐敗ぶりを。時代錯誤なものの考えを守らんとする、貴様の呪いじみた執念を』
 「酉」はちらりと執事を見やる。
『我は常に新しい風を好み、それを慈しみ、愛すのだ。貴様にも、玲の弟にもそういった考えは皆無であると判じた。来世があるならゼロから考えを改めるのだな……私の力は玲に託す。異論は無しだ』
 部屋には父の屈辱に満ちた低い呻きと、メイドの嗚咽が響いた。

「酉の力を持つ者が、次期の家主となること。では玲様は次期族長……」
「そうよ」
 薬をしみこませたガーゼで若執事の頬を覆いながら私は答えた。
 「酉」が私を選んでくれて光栄だ。
 私はこの家から発つ準備をする。大好きな母と共に。もちろんお付きの者はあの執事だ。
「古から伝わる十二支の力。酉水家の人は代々酉の力を授かるの。その力は魔を滅することができるそうよ。ただ、今までは長男にね。けど『彼』が言っていたわ、異例もまた新しい風だと」
「……新しい、風」
と、部屋のドアが開き、余所行きの服に身を包んだ母が現れた。
「玲、準備は……あら」
 母はいつもより軽やかな声色だ。態度には出さないが、この家は息苦しくてたまらないのだろう。
 父はあれから憔悴しきってしまった。私の上京にも、母とこの執事を連れて行くことにも無言の承諾をした。
「髪、切ってしまったのね」
「はい」
 私はいつも長く垂らしていた髪を切った。物理的にも精神的にも、身が軽い。
「長い髪も素敵だけれど、こっちも新鮮でいいわね。似合ってるわ」
「ありがとう、お母様」
「玲様、桜子様。僕の名前を……」
「そう! 貴方の名前を教えてくれるのよね?」
 この家の使用人は、所詮命令に従う人形だから、名前など必要ないと私の祖父が決めた謎のしきたりがあり、どの使用人の名前も知らないのだ。
 執事は晴れやかな笑顔を私たちに向ける。
「葵、佐々木葵と申します」
「いい名前。素敵」
 優しい彼にぴったりだと私は思った。
「葵さん、これからもよろしくお願いします」
 母は丁寧に頭を下げる。
「はい。では参りましょうか」
 葵さんは懐から出した呪符に何かをつぶやき、目を閉じた。
 緻密に創られた彼の転送術は、悪意も跳ね返し、どんな追っ手も振り払うそうだ。
 転送先は私が春から通う十二支の力を授かったものたちが多く住む街、十二支ヶ丘だ。
 私は新しい生活に心が躍る。自分の目が輝くのを感じるほどに。
「さあ、行きましょう!」

おまけ
「葵さん、このお写真は?」
玲は葵のバッグから覗いていた銀色の髪の男性のストラップが気になった。
「この人はですね。僕の支えであり、永遠の推しです!」
目を輝かせて答える葵。鼻息が荒くなり頬も赤くなった。
「へえー、バンドをされてる方なのね。ギタリスト?」
「はい、インディーズバンドなんです。でも……」
「?」
「メジャーデビュー目前で……ボーカルの女性が事故に巻き込まれて、それ以降パッタリと情報は途絶えてしまっていて」
「……そう」
とても残念に言う葵の顔を見て、玲は申し訳なくなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?