空虚編
「に、人魚姫? リリー、貴方そうなの?」
「今はそれどころじゃないわこころ! あいつ……人間と、契約してしまったのね」
不快そうに顔をゆがめるリリーとは対照的に、ミソハギは牙をむきだして笑う。その羽は、愉快そうにゆらゆらとはためいた。
「クックッ、あの人間は非常に愚かだったなあ。愛の恋だのに溺れて、しまいには自分を投げ出してしまう『従属契約』をしてしまうとは……まあ、そのおかげでボクはこうやって自由に動けるわけだが」
「そんな……あ、貴方は一体誰と契約を」
「アハハハハハッ! それはお前の血を吸ってからじっくり教えてやろう、ミナズキココロ! 死に魅入られ、海に心を奪われた愚かで美しい少女。『普通の人間』とは違うお前の血さえ吸ってしまえば、ボクはっ今度こそ願いを叶えられるっ!」
ミソハギはこころに向かって飛んでくる。その柔い首筋に噛みつこうと、裂けた口からギラリと光る牙を見せつけながら。
「待って、やめて!」
こころは顔を真っ青にして叫んだ。
――どうしてそんなにわたしの血が欲しいの?
この吸血鬼と契約した人って?
どうしてこんな事に?
……あれ、そういえば。
リリーはどうして、わたしと一緒にいてくれたんだっけ……?
「こころ、海に飛び込んで! あなたは絶対、ワタシが守るから!」
リリーの悲鳴にも似た言葉に、こころは少し躊躇って冷たい海に飛び込む。制服が海水を吸って鉛のように重くなっていった。
リリーはこころを守るために魔力を解き放ち、水の塊で出来た小さな精霊達を作り出した。精霊達は吸血鬼に向かって、弾丸のように飛んでいく。
「絶対に、こころは渡さない……!」
「小癪な人魚め! お前も本当は、その少女の肉を喰らいたいくせに! 邪魔をするなら、少女諸共血まみれにしてやる!」
「ふたりとも、止まりなさい」
その言葉に、リリーとミソハギは止まった。いや、百星の言霊に縛られた西洋の人外達は、息をすることもなく硬直する。
「さっき言ったよね? あたしはこの島の『ニンゲン』を守るって。それは、違う土地からやってきてくれて、ここに住んでいるこころちゃんも一緒よ」
百星の瞳が、星空を映したかのように輝く。
百星はゆっくりと瞬きをしてある言葉を呟くと、その小さな身体は少女から大人の女性の肉体へと変貌していく。
紺色の夜空に星々を刺繍したようなマントと、夜の闇に溶けるような大きくてしなやかな作りの帽子に身を包んだ百星は、ゆっくりと目を開く。
その姿は、正真正銘の魔女だった。
「もーう、おいたはダメだって。わたしはここの管理人であり、ここを統べる支配者なんだから。さあて……君達はこれから、罰を受けてもらいます。覚悟はいいかしら?」
硬直した人外達は、ぴくりとも動かない。肯定も否定も、する術がなかった。ただ、硬直したまま目を見開いている。
「まあ拒否権はないから、やっちゃうわね。おやすみなさい、遠い土地の魔物達よ。目が覚めたら、今日のことは全て無に溶けているわ。それと、相崎竜輝くんとの『従属契約』も、ね」
リリーの周りの精霊達は、泡となり姿を消す。
「さあ、『無効化』のレシピも効いたかしら。こころちゃんのことは、わたしが責任を持って家まで送り届けましょうね」
百星が指を振ると、海水で冷たくなったこころがゆっくりと海から姿を現した。こころは穏やかに寝息を立てていてる。
魔女がこころに放ったその魔法は、彼女を暖かい毛布のように包む、優しい呪い。
百星は海岸にその身体を横たえると、小さく呪文を唱える。
「こころちゃん。やり直した今日はきっと、いい日になるわ」
百星の魔法は、その身体を優しい光で包んで、家へと送り届けるための転送魔法を作り出した。
「……ァ……」
ミソハギが何か、言葉を紡ごうと必死に口を動かそうとしていた。
「何かな? 吸血鬼くん」
「き……キ、サマ。サ……ザンカ、か……?」
「……まあ! 今『山茶花(さざんか)』と言った? その名前、どこで聞いたの? それは吸血鬼くん、大昔の大魔法使いで、あたしのおばあさまの名前よ。貴方なんかが覚えていていい名前ではないわ……あとで、その記憶も一緒に消しておくわね」
百星はにっこりと笑うと、お口はチャックよ、とミソハギの口物に指を当てた。
ミソハギは、驚きの表情のまま石像のように動かなくなった。
こころを無事送り届けると、魔女はリリーとミソハギに向かって、微笑んだ。くいっと指を引き寄せるように動かすと、二人の硬直は解かれた。
魔女はそれらから視線を夜空に移すと、夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。そうした後、両手を空に向かって広げる。そうすると、彼女の姿は跡形もなく夜の闇に消えていく。
――何も出来ず、竜輝との契約を破棄された吸血鬼は、人魚と共にその場に重なり合うように倒れ、固く目を閉じるのだった。
☆
魔女の手によって「無効化」された一日が、また最初から始まる。
「リリー、今日も来たわよ!」
海辺で静かに夕日を眺めていたリリーは、こころの声に振り返る。こころのとなりに、見知らぬ誰かが立っていた。
「こころ……その子は?」
「こんにちは、人魚さん!」
あどけない笑顔の少女が、リリーに向かって腕を大きく振っていた。
「う゛……? あれ。俺はさっきまで、何を」
自室の床で倒れていた竜輝は、右手に鋭い痛みを感じ、顔をしかめた。だがその痛みはやがて、心地のいい感覚に変わり、消えた。
「……契約の印が、消えた?」
ミソハギ? と竜輝は周囲を見回す。ミソハギは蝙蝠の姿になって、布団に横になっている。だか、その顔はいつもより、青白い。息も何だか苦しそうだ。
「……何なんだよ、一体」
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