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試着室からの脱出計画

最近、仕事用のスーツが傷んできたので、新しいスーツを一着買うことにした。
ちょうどスーツを売っている店が閉店セールをしていたので、そこに行くことにした。

店内でなんとなく洋服を見ていたら、ブラウンのストライプ柄のジャケットとスラックスのセットが1万くらいで売られていた。ブラウンの絶妙な色合い、裏地のクールな紺色、目立ちすぎないけど確かな存在感があるストライプ、僕はこのジャケットに一目ぼれしてしまった。

すぐお会計しても良いくらい気に入っていたが、サイズが合わなかった困るので、念のため試着することにした。ただ、その日は閉店セールの最終日でお客さんが多く、店員さんも忙しそうな感じだった。
一旦試着を諦めて他の洋服を見ようかなとも考えたが、もし僕がこの場から離れてしまったら、”この子”を誰かに取られてしまうかもしれない。それくらいこのジャケットに惚れ込んでいた僕は、試着のチャンスを伺いつつ、スーツの前に陣取った。このスーツに近づくものがいたら、さっとスーツを手に取って、横取りさせないように目を光らせ続けた。

目がしょぼしょぼになるくらい光らせ続けて3分経ち、ようやく僕にチャンスが訪れた。手の空いた店員さんがいたので、勇気を出して、「試着しても良いですか?」と声をかけた。「もちろん、良いですよ。」と明るい声で対応してくれた女性の店員さんに導かれて、試着室に辿り着いた。案内し終えた店員さんは他のお客さんに呼ばれて、またどこかに行った。試着室は一箇所だけで、試着室の前には男女二人組が椅子に座って、他の店員さんと話していた。

試着室に入った僕は、上着を脱ぎ、ジャケットを羽織ってみると、鏡の前には一目惚れしたスーツを華麗に着こなす男の姿があった。さっきの胸の高鳴りは本物だと確信した僕は、スラックスも穿いて見ることにした。スラックスもかっこよかったが、裾が地面に届くくらいの長さがあった。なので、裾上げしてもらうため、カーテンを開けようとしたが、試着室の前には男女二人組がいる。その男女二人組の隣にいた店員さんの声も聞こえないので、その店員さんが近くに来るまで試着室で様子を見ることにした。

すると、すぐに店員さんが男女二人組に何かを説明している声が聞こえてきた。今すぐカーテンを開けてしまうと店員さんだけではなく、男女二人組の視線も集めてしまう恐れがあったので、もう少し待つことにした。
2分後、話が終わりそうだったので、そのタイミングで店員さんを呼ぼうとカーテンを開け、カーテンから顔をひょこっと出してみた。しかし、そこには店員さんがおらず、他の店員さんも遠くにいた。ただ、幸いにも男女二人組にも気づかれなかった。

一旦カーテンの内側に戻って、呼吸を整え、作戦を立てることにした。店員さんが試着室の目の前にいたら、声をかけることができる。だけど店員さんまでの距離が遠い今、店員さんを呼ぶためには声を張らないといけない。僕は今日誰とも喋っていない。喉が閉まりきっている。ウォーミングアップをしないまま、いきなり100mを全力で走ることが難しいように、人とコミュニケーションを取らないまま、いきなり声を張って店員さんを呼ぶことは難しいのである。

僕の頭の中には、買うのを諦めるという選択肢もあった。ただ、自ら手にしたチャンスを自らの手で逃がしていいのか?またいつものようにここで諦めていいのか?と自分自身に問いかけて、僕は店員さんを頑張って呼んでスーツを買うという選択肢を取ることを決断した。その決断の理由はシンプルで、このスーツをどうしても買いたいからだった。
自分の殻を破るときが今だ。今までの自分を変えるために強い覚悟を持って、僕は試着室のカーテンを開けた。

しかし、そこには、店員さんはいなかった。

絶望感のなか、カーテンから顔を出した僕はもう引き下がれないぞ、と思いひょっこり状態で店員さんを探した。すると、その願いが届いたのか、男性の店員さんが目の前からやってきたのである。
僕の今持っている全ての力を尽くして「すみません」という言葉を発した。ちゃんと言葉が音になっていたかわからない。だけど、店員さんがこちらに気づいてくれて、裾直しをしてくれた。

僕は勝ったんだ。いつ逃げ出してもいい状態で、自分の弱さと向き合い、自らの手で勝利をつかみ取ったんだ。
激闘を終えて、お会計までのウイニングロードを誇らしい気持ちで歩いていった。

お会計を済ませ、ジャケットだけ入った袋を肩にぶら下げて、店をあとにした。ただ、スラックスは裾上げに10日間かかるらしい。
えっ、10日間かかるの?…。明日からすぐには穿けないんだ…。
とため息をついたが、スラックスの代わりに僕はもっと大切な何かを手に入れたような気がした。

自らが掴んだチャンスだからこそ、逃がしたくないという感情が芽生えた。
人は得よりも損をしたくない生き物だ。
逃がしたくないという感情は、弱い自分を封じ込める強力なエネルギーになる。
だから、そのエネルギーを発動するために、チャンスは自ら掴みに行かないといけない。俺はこれからも自らの手でチャンスを掴みとりにいく。
試着室という安全圏から抜け出すために、勇気を出してカーテンを開けて、リスクだらけの外の世界に向けて、これからも声を張っていきたい。

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