刃下之心(じんげのしん)
年末からは御神事、御神事、御神事、でした。
昨日はその締めくくりとも言える「筒粥神事」所謂粥占でした。
早朝から行者衆と崇敬会員が集まって六時間に及ぶ般若心経読誦。
森閑とした境内に、太鼓、手錫杖に導かれた大音声が響きます。
私が火の御役、三好先達が水の御役でご奉仕献りました。
火も水も、融通無碍な大自然の働きを良く顕し、その活動を人が仲立ちしていく中で、神意が下る。そこで形作られる「場」の論理は、顕幽二界に跨るもので、その時だけ行者は異界の門に立つのです。
以前からこの世界に関わり感じてきたことなのですが、行者は危うい所に身を置くことで、大自然のプリミティブな力を引き出そうとしているのだなあ、と。
それに呑まれたなら、社会的には不適切な、いわば山でしか生きることの出来ない「天狗👺」とか、人倫に仇成す「鬼👹」、人を化かす「狐狸🦊」の類になりかねないなあ、と。
よく「里山伏」と言ってイイカゲンな偽行者を揶揄しますが、私にしてみれば「里山伏」こそ修験の本儀に近いのではないか、と最近考えるようになってきました。「山」で行を積み縦の力を感得し、「里」で世間を師として横の倫を身につけるには、相当な柔軟性と編集力が要求されます。
また、大局を見る洞察力や、日々の内省、何よりも信念が大切です。
これはナカナカに難しいものです。
でもね、これが実は「安全弁」なのですよ。
強力な力の場に身を置きながらも、天狗や鬼にならない為の。
さらにこれで食っていない、と言うところも大切なのかも知れません。
しかしそうなりますと、ただただ「させて頂きます」の一字であります。まあ、シンプルですね。
つまりは「刃下之心」の錬成以外の何ものでも有りません。図らずも誠に勿体無く、有難い境遇に生かして頂いております。(まあ、そんなオーバーに言う程のことでもないのですよ、実際🍷もよく頂いていますし、最近はサウナも✨)
そう言えば師の法印が言っていました。
「心置くやいばは諸刃ゆめゆめに三方の障り忘るべからず」と。
写真は三好妙心さんからご提供。