忍縁
不思議なこと、ふたたび。
甲陽・諏訪境の地、先達に道場を構えて八年になる。
その間に、ちょっと普通では考えられないような数々の「忍縁」が有った。
武田信玄公の時代より聞こえしツワモノ、多田治部、原隼人、高田郷三衛門、横田高松……これらは所謂松代藩甲陽流忍術(竊奸)系統の伝書類には概ね記される出抜(スッパ)頭の名前なのだが、これら大先輩の内より、多田治部殿の一族が居住したのが、今私の居る「先達」村。
横田高松殿は甲賀より移住された忍家にて、飯道山の権を保ち続ける御家。
ちなみに私の修験の一部は飯道の道統です。
そして原隼人殿、このお方の斥候術は後世名高く、私見では甲陽兵法の元となっているのだが………先日この方の末を探している旨を、いつもお世話になっている某寺院のご住職と世間話のまにまに話してみると、ご住職急にケゲンそうなお顔に……
お話を聞けば、あに図らんや❗ナンとご住職のお寺の檀家さんこそがその原隼人の一党だということ💦
さらには三十年前迄は各種文書も現存していたらしく(現在は焼失😢)、今度できたらお話を伺いに行きたいなあ、と✨
しかしよく考えれば、先の「竊奸秘伝」に出てきたり、馬場流腰之回等で関係深い馬場美濃守様や、山縣三郎兵衛様騎下の曲淵宗立斎殿、山本勘助公のご領地居は、歩いても半日で回れるくらいの距離。
更に私が聞いている真田忍びの総領の墓地や宮川流開祖の奥津城にも近く、何で甲陽の忍縁はこの北巨摩、武川筋に集中するのだろう……と、また新たな疑問が。
しかし、流されてたどり着いたら実は故郷だった…みたいな、なんか冗談みたいな展開に頭がクラクラして、現実についていけていません💦