なぜ誤るのか?

これらは全て情報が公開されないと、よく分からないということですが、政策判断における誤りを減らすには透明性の高い運営が必要であろうというのは経験的確かさがあるように思えます。

過去最大の政策判断の過ちといえば、昭和16年の対米戦止むなしであったことは、衆目の一致するところではないかと思われますが、なぜ政府と軍部はそこまで誤っているとわかっている政策判断に追い込まれたのかということについて、少し考察が足りないのではないか?と思われます。

直接的なものとしては、大陸の権益を手放すことは帝国として自殺行為(国民を食べさせなければならない。)であるからのめなかったことは間違いないわけですが、そもそも各国が中国大陸に権益を持つ中で、何故に秩序を乱しに行くはめになったのか?

情報公開制度は、国民に国の政策のありようの透明性を確保して、健全な判断力をもって国民の福祉の最大化を図ることにあることは、民主国家の国民として持つべき教養であると思われますが、その辺りをポイントとして展開したいと思います。

政策の遂行においては当初の目論見通りにいかないことは珍しくなく、故に撤退基準ですとか色々とプランを練ることになり、また、これが議会できちんと議論されることで、政策の民主的正当性が担保されることになり、責任が共有されることになりますが、帝国は無敵だ、あるいは統帥権干犯は許されない、天皇機関説はおかしいというような、観念的な言説や、批判を許さない独善的な態度は一体どこからやってきたのか?遡ると日露戦争の一連の戦場における様々な出来事を総括できなかったことに行きつきます。

総括できないとは、作戦上の失敗をしっかりと教訓とできなかったことを指します。

旅順港に立て篭もる艦隊を無力化するために行われた203高地をめぐる戦いにおいては、司令部が前線の状況を把握していない等統帥上の問題が指摘されておりましたが、有耶無耶になりました。仮に責任を問うことができていれば、のちの軍の無謬性に軍が自縄自縛に陥ることなく、客観的なエビデンスに基づく組織運営ができたかもしれないと思うと残念でなりません。

誤りを認めるというのはとても大切なことであり、これがなくては組織はいずれ立ちいかなくなるというのが歴史の教訓であると思われます。

また、例えば戦後のハイパーインフレを戦時に発行された国債に安易に依拠して批判しますが、後世の目からすると、通貨を大量に発行して、売り買いの対象となる商品が空襲でズタボロになっていて、復興用の資材が乏しいのでは、当然インフレになるという当たり前のことにどうして言及できないのだろうかと思うわけですが、もしかしたらそのような主張をしている方は、失敗を認められないのは無謬性の罠に嵌っているのではないか?

例えば、高度経済成長は官僚機構と民間企業が優秀だったから可能だったのだという言説がありますが、単純に団塊世代の人口ボーナスがあって、消費が伸びれば経済は成長しますし、何か官僚機構や民間企業が魔法を使っていたわけではなく、人口の伸びが止まって経済成長が止まったのは、それは工夫をしなければ経済が伸びないステージに変化したという事実らしい現象を無謬性のせいで認められないせいなのではないか?

そもそも昨今の災害が増える中、能登の復興が進まないのは、補正予算を組んで真っ当な手段で能登半島の復興を進めてしまうと、それ以外の地域での賃金上昇に拍車をかけてしまい、供給が不足し、インフレになり経済成長してしまい、税収が豊かになってしまい、増税することが不可能になってしまうからではないか?

これらはいずれも情報公開が適切になされ健全な批判にさらされ教訓などが得られることによって、政策判断における過ちの減少につながるのではないかというのが経験的確かさなのではないかと思われます。ただし、こうした活動は地味であって派手ではないため、皆嫌うのでしょうし、役所も人手不足の昨今、こうした手作業が増えるのはごめん被りたいのが本音でしょうから、更に行政のデジタル化を進めて、職員の手数を増やさずに検証できる仕組みの確立が望まれるのではないでしょうか?

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