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【旅の話】交通網・情報の過多時代における「旅」の難しさについて
0.はじめに
今や日本の国土では新幹線、高速バス、航空機などの速達交通網が発達し、短時間で様々な場所へ行けるようになった。加えて情報通信技術の発達により、旅先の情報を容易に得ることができ、また同時に発信することもできるようになった。ナビ機能によって道に迷うことも少なくなり、近くの飲食店を検索できるようになった。最近では入力する必要すらなくなり、音声認識システムまで搭載される豪華ぶりだ。伊能忠敬がこれを見たら目を回すに違いない。
多くの人はこうした技術の進歩を「可能性の拡がり」と考え、歓迎する傾向があるように思える。行ける場所は増え、競争によって質の高い店は増え、行くための苦労は減った…。いいことづくめではないか、と。
「旅行者」の視点に立てばそうかもしれない。特定のコンテンツ(グルメ、温泉、イベント、史跡、景勝地、ホテルなど)を消費するために現地へ行くという意味では、旅の労力は減った方が嬉しいだろうし、行ける選択肢が増えたほうが良いだろう。
1.交通の過剰発達による弊害
しかし、「旅人」の視点に立つと結果は真逆になる。過剰な交通・通信技術の発達はむしろ、「良い旅」に寄するどころか、むしろ弊害になりうる。
「旅行」と「旅」の違いについてはこのブログで何度か言及しているが、大きく分けると「(部分的)消費」か「(包括的)鑑賞」かの違いと表現できるだろう。あるいは「団体的」か「個人的」かの違いと言い換えても良い。
「修学旅行」という言葉はあっても、「修学旅」という言葉はない。そして修学旅行というのは、工程が組まれたツアーであり、個人の自由意志がかなり制限される団体旅行でもある。
参加者は工程に沿って移動し、決められた場所に向かい、それを部分的に「消費」する。もちろん、後でレポートを書くからある程度は「鑑賞」する必要はあるが、それは義務からするのであって、自発的な鑑賞ではない。しかもその鑑賞の時間も定められており、それが終わればそそくさと立ち去らなければならない。あくまでスケジュールを完遂することが至上命題とされるからだ。この場合、交通の発達は歓迎される。移動時間など、せいぜい同級生と雑談・レクリエーションするだけの時間にすぎず、その労力は少ない方が良いからだ(まあこの時間がなんだかんだ一番楽しかったりするが…)。目的地への所要時間が短縮されれば、より多くの場所を訪問することも可能になるのだから。
だが、「旅」の場合は違う。新幹線の発達で景色がよく見えなくなったり、在来線が廃止され、行きにくくなる場所が増える場合もある。行くのが難しいゆえに、知る人ぞ知る隠れた名所だった場所が行きやすくなり、大衆に開放されることで騒がしくなり、一気に風情を失うこともある。北海道美瑛町の「青い池」、同じく北海道斜里町・羅臼町の「知床」、京都の千本鳥居をはじめ有名観光地など枚挙にいとまがない。「旅行」と違い、目的地に着くまでの過程も重視される「旅」において、これは致命傷といえる。「旅」は部分的消費ではなく、包括的な鑑賞が本質だからだ。大衆化されてしまうと風情がなくなり、風情が生命線である「旅」は事実上の「死」を迎える。今の京都で「旅」ができる人がいたらぜひ教えてほしい。少なくとも筆者には無理だ。間違いない。
特にこの「大衆化」は旅慣れた人ほど悩みの種になるはずだ。本来は「本当に行きたいという意志と覚悟を持つ者のみ」が行けたはずの場所が、大した身体・精神能力もないくせに、金に物を言わせるだけの「大衆」に毒されてしまう。新幹線や飛行機などのうるさくて風情の欠片もない乗り物に、キャリーケースをガラガラ引いて乗り込んでくる。同じようなデザインのケースを、同じようなうるさい音を立て、同じスピードで引いてくる。そこには何の個性もない。「効率性」があるだけだ。移動中スマホを凝視していたこともあって「お顔」は無表情で、まるで工業製品のように乗り物から「出荷」される。生粋の旅人である私からすれば、よく好き好んであんなものに乗れるなあ、と呆れを通り越して感心するくらいだ。
しかも早く快適に着けるので苦労はないし、中でも「成金野郎」はこれ見よがしに「グリーン車」だの「スイートルーム」だの、「デラックスツイン」だの、「グランクラス」だの、「横文字オプション」を付けてくる。
まあ性格の悪い私なんかは、
「何がスイートだ。甘ったれやがって。本当の旅はそんなに甘くねえぞ!グランクラス?笑わせんな。あんた方が机上で考えた、客にお誂え向きの【ビジネススマイル】を極めた【若い美人】を【アテンダント】に付ければ満足するとでも思ってるのか?いくら丁寧に接客しようが、事務的な女性ほどつまらないものはないがね。だったら地元の売り子おばちゃんたちの方がよっぽど風情があってええわ!若けりゃいいってもんじゃねえぞ!それと最後にもうひとつ。
横文字いくつ使ったら気が済むんだ!ここは本当に日本なのか?きちんと日本語を使いなさい。はい、やり直し!」
…と思うのだが、連中には庶民の遠吠えにしか聞こえないのだろう。そして人によっては庶民旅人を見下しさえする。
「あんな遅い乗り物に乗らざるを得ない下々の者にはなりたくなーいざます。オーホッホッホッ!ボクちゃま、ああならないよう、しっかりお勉強するざますよ」
てな感じでね(今どきこんな人いないか…)。
とまあこんな具合で、交通の過剰な発達は、旅の生命線である風情を破壊してくる。そして行きやすくなった場所が集客のために「観光化」し、どこで作っているのかわからんお土産が乱造されたり、大資本が経営するビジネスホテルが乱立したり、けばけばしい名前をつけたマンションが建設されたりして、景観や文化が破壊されるわけだ。こうなるともはやテーマパークのようなもので、わざわざ「旅」の行き先として選ぶ必要性はなくなってしまう。
このような観点で日本の町を眺めた場合、「観光地(=テーマパーク)」として訪れる価値がある場所はまだあるが、「旅先」として選ぶ価値のある場所は、もう殆ど残っていないような気がする。旅の本質を「非日常性」に求めるなら、別にテーマパーク的なものでも構わないだろうが、旅の本質を「文化・風情の味わい」に求めるなら、テーマパークでは力不足だろう。
だが、日本は既に過剰に観光化されてしまった。皆さん、これが「観光立国」の末路です。しかと目に焼き付けておきましょう。
以上が、交通の過剰発達によって旅人が被る損害である。
まあ平たく言えば、
乗り物が発達する→金さえ払えば誰でも行けるようになる→その中にバカや拝金主義者がいる→彼らは文化や風情の価値を理解しない(単なる消費者あるいは開発者でしかない)→その土地の文化や風情を破壊する→行く価値がなくなる
という流れになる。
まあ偉そうに言っては見たものの、「バカ」にならないようにするのは結構大変だ。穴があったら入りたい、新幹線や飛行機があったら使いたい、というのが人の性であり、それほど人間というのは弱い生き物なのだ。
この過剰交通に対する対抗策として、「地元を徹底的に観光する」ことが挙げられる。「灯台下暗し」とはよく言ったもので、自分の地元こそ意外に知らない店なり、公園なりが多い。まずはそこをしっかり観察・鑑賞しよう。なまじ交通が発達しているせいで隣町、あるいはもっと遠くのどこかに行きたくなる気持ちはわかる。だが、旅というのは別に遠くに行かなければできないわけではない。近場でも旅はできる。降りたことがない駅で降りたり、知らない通りに入っただけでも発見は多い。いつも訪れている場所を、別の方角から訪問してみるのもなかなか乙な楽しみ方だ。方角によって異なる印象に驚くことだろう。
こうして観察力をつけておくと、どのような町に行っても楽しめるようになる。「何もないからつまらない」という人もいるが、何かはあるのだ。必ず。つまらないのはその場所ではなく、あなたの貧相な知識や想像力、好奇心であろう。想像力や好奇心ひとつで旅は輝く。ぜひお試しあれ。
2.情報技術の過剰発達による弊害
次に情報技術の過剰発達に伴う旅人への損害を見ていこう。
これは結論から言うと、
・「評価至上主義の蔓延による主体性の喪失」
・「偶然性の喪失」
のふたつが主な損害と言える。
前者は非常に単純。
「この店は評価が良いから美味しいに違いない。だから行こう」
あるいは逆に、
「この店は星が少ないからまずいに違いない。だからやめよう」
という具合に、他者の判断を基礎に旅程を決めるようになるということ。自分の判断を優先すれば良いのに、なぜかそうしない。新幹線や飛行機が各地に蔓延させた「コスパ・タイパ至上主義」に毒される形で、「失敗への過剰な恐怖心」が生まれてしまっているのだ。なぜなら、失敗することは「コスパ・タイパが悪い」から。これは選択肢が増えすぎたことによる弊害だろう。昔は行ける場所が少なく、また比較対象が少なかったし、事前に手に入る情報も少なかったから、出たとこ勝負で行くしかなかった。つまり、時には失敗せざるを得なかったわけで、それを恐れていては旅などできなかった。
しかし、選択肢が増えすぎた今、ひとつの「失敗」は数多の選択肢を失うことを意味し、忌避されるようになってしまった。そうした「失敗」も含めて旅の醍醐味だと私は思うのだが、時代の急激な変化は空恐ろしいものだ。
おそらく、この現象(事前情報、コスパ・タイパ至上主義)はかなり跋扈しているはず。我が地元北海道の旅行情報番組『旅コミ北海道』においても、「コスパ」という単語がやたら連呼されている。昔はこんな言葉なかったような気がするが、いつからですかね。そういえば「コスパ」も横文字ですな。どうなってんだこの国は。
もうひとつは偶然性の喪失、まあ要は「予期せぬ出来事」のことだ。これも旅の醍醐味である。私の場合、第二次本州紀行における長万部駅からの相席者がこれに当たる。災害によって特急に乗らざるを得なくなった結果、隣に座った方が「たまたま」鉄道ファンであり、話が弾んだというお話である。
まあ予期せぬ出来事はいつでも起こりうることなので、いくら情報技術が進歩しようが完全にはなくならない。けれども、グーグルや旅行系配信者・ブロガーのおすすめに盲目的に従って店を決め、偶然見つけた店は「評価が定まっておらず、失敗したくないから嫌だ」といって避けてしまうとしたら、その旅は極めて味気なくなってしまうと感じる。評価が定まっていないなら、むしろ第一人者になるチャンスだと思うし、積極的に挑戦してみるのもいい。失敗しても、それは必ず経験値として蓄積され、無駄にはならないだろう。
最近の若い人は失敗を過剰に恐れるらしいが、まあこれもネットが発達しすぎたせいだろう。事前に調べることができすぎるせいで、「失敗しても自己責任」という風潮が形成されてしまっているのでしょうな。
全く気の毒な話だが、とりあえずそういうときは情報断食をして、スマホも雑誌もテレビもラジオも一旦遮断し、自分の判断に従った方が良いだろう。旅なんて風の向くまま、気の向くままにいけばいい。別に情報はいらない。なんだかんだ自分の勘が一番頼りになったりする。
事前の予習が必要だ、と言われるかもしれない。まあそうかもしれんが、別に後で調べたって構わないだろう。事前に調べても良いが、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。調べ過ぎはかえって興醒めな結果を招くこともある。適度に偶然性をあてにして旅をするのも悪くはない。
3.おわりに
と、いうわけで、交通と通信技術が発達しすぎた現代において「旅」がいかに難しくなっているか、というお話でした。『ローカル線ひとり旅』でも書かれている通り、日本は旅行先進国ではあっても、旅については後進国だと私は考えます。こう書くと、
「旅なんて人それぞれ。口出しされる謂われはない!黙ってろ!」
と噛み付いてくる「方々」が出てくるでしょうね。
別に構いませんよ。方法なんて好きにしてもらえれば。
ただ私が言いたいのは、「旅」と「旅行」は別物だということ。それをごっちゃにすんな、って話です。
新幹線を開通させて調子に乗っている鉄道会社が「〇〇新幹線で行く△△の旅」なる広告を打ち出すのは皆さんも既にご存知だろう。
私に言わせれば、これは日本語としておかしい。新幹線で旅ができるかよ、と悪態をつきたくなります。それはあたかも、本の要約やあらすじを読んだだけでその本を読んだつもりになるのと等しい。
ここで以前紹介した山本夏彦の言葉を再び借りましょう。
「学問がない者が旅に出たところで得るものはない」と。
景色に目もくれない、一句詠むことすらできない、そんな「方々」がおでかけしたところで、疲れて帰ってくるだけでしょう。ちなみにビートたけしも海外旅行に行ってどうすんだ、という趣旨の著述がありましたね。何の本かは忘れましたが。
世間ではUターンラッシュなるものが始まっているらしいですね。また横文字かよ、というツッコミは今回はなしです。なぜなら、これは的を射た表現だから。
前にも書きましたが、新幹線や飛行機で忙しなく帰るのは「帰省」ではありません。何も省みていないのですから当然です。どうせスマホいじるか、寝てるかのどっちかでしょう。人によっては仕事しているかもしれない。だから「帰省ラッシュ」という表現は正確ではない。そもそも「ラッシュ」になった時点で「帰省」ではなくなっている気がしますけどね。横並びのこの国では。
これに対し、Uターンは正確な表現です。いや、厳密に言えば往復で同じ道を辿っているのが殆どだと思うので、文字の形的には「Iターン」が適切だと思われます。が、この言葉は既に別の意味で使われています。誤解を招く可能性があることを考慮すれば、Uターンはこれ以上ないくらい適切な表現といえるでしょう。横文字もたまには役立ちますな。使いすぎは困りものだけど。
行ってヘアピンカーブを曲がり、また直線コースをビュンビュン飛ばして帰ってくる。まるで『グランツーリスモ』の「テストコース」みたいな行程でございますな。ああ、嫌だ嫌だ。忙しなくて。
賢明な読者なら次に私が何を言いたいか、すぐに予想がつくだろう。
理想の「帰省」は形的には「Sターン」の延長である「8の字」だと私は考える。くねくね曲がりながら、色んな所を回り、ゆっくりと帰ってくる。これなら充分省みる時間を取れる。これが可能な距離で行程を設定すればいいだけ。新幹線でひとっ飛びできるから実家を遠く離れよう、という安直な発想をするから、それしか使えなくなるのだ。
まあこれに対しても非難を浴びせてくる「方々」はいるだろう。
「何を言うか!親に孫の顔を見せに行くのに、時間がかかって辛い移動手段で行けと言うのか?そんなの子どもが可哀想だし、親を待たせて申し訳ないじゃないか!不届き者め!黙ってろ!」
てな具合で。まあ私としては、
「じゃあそもそもそんな遠い所に行くなよ。運休したらどうすんだ。毎年毎年慌てふためいて何もできなくなってるじゃねえか。だったら最悪歩きか自転車で帰ってこれる所に居を構えりゃいいだろが。そうすりゃ道が陥没でもしない限り帰ってこれるんだから。過剰に遠くに行くほうがよっぽど不届き者じゃねえか」
と返したいところだが、まあ別にいいだろう。彼らは「東京」はじめ大都市が大好きなんだから、それに水を差すこともあるまい。好きにすればよかろう。
ただ、ここでも私が言いたいのは「帰省」と「帰宅」をごっちゃにすんな、という、ただそれだけの話である。新幹線や飛行機を使って実家に帰るのは「帰省」ではなく「帰宅」だ。そこのところ、勘違いしないように。
もはやこの国では「帰省」すらまともにできなくなってしまったようだ。毎年毎年、同じことを繰り返す。学習能力もない。
まあこのへんにしておこう。要は「じっくり味わってこそ旅であり、帰省である」ということ。そのために必要な感性や想像力を育てよう、という話。それだけ伝わればいい。
それでは、思想なき大衆が蠢くラッシュから遥か遠く離れた自宅にて記す。
(2024年8月17日)
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