道徳の限界~不謹慎狩りと自粛ムードについて~
0.はじめに
自然災害や事件・事故が発生し、人が死亡又は重傷を負うことがあります。そのとき、「苦しんでいる(亡くなっている)人がいるのに自分たちだけ楽しむのは不謹慎だ」
といった理由をつけて他者の言動を非難したり、あるいなそうした非難を恐れて「自粛」を行うことがしばしば起きます。俗に言う「不謹慎狩り」「自粛ムード」ですね。
今回は、こうした考え方や行動は本当に妥当なのか、問題点を挙げつつ考察していこうと思います。
1.そもそも論~同情(道徳)より支援
結論から申し上げますと、災害や事故によって被害を受けた方に必要なのは適切な支援です。被害を受けてもいない第三者の主観的道徳法則に従うことではありません。不謹慎狩りをする人は「被害者の気持ちを考えて自粛すべきだ」と言いますが、当の本人は被害者ですらなく、ただの第三者であることもしばしばです。これでは被害者の気持ちを代弁しているとは到底言えないでしょう。
また、では彼らが募金、又は被災地へ向かい、炊き出しや救命活動、交通整理などの「具体的支援」を行っているかと言えば、必ずしもそうではない。単に「道徳」を旗印に他者を攻撃していることがほとんどでしょう。
真に必要なのは被害の救済であり、「空想上の」道徳を守ることではないはずです。
本当の不謹慎とは、デマを流したり被害者を誹謗中傷することであり、日常的なことを行うことは別に何も不謹慎ではない。私はそう考えています。
また、CMやイベントが中止されることもあります。
「被害者の方の辛い気持ちを慮り、楽しいことを自粛します」
というわけです。
私はこうしたことに違和感を覚えます。
自粛の是非は置いておくとして、こうした行動は合理的に考えた結果ではなく、雰囲気を察して「叩かれそうだからやめよう」ということなかれ主義に過ぎないからです。
たとえば、イベント会場が被災地であるとか、もしくは会場は被災していないが、主催者が被災した影響で会場に来れず中止になるなら話はわかります。その場合は復興を優先した方が良いからです。
しかし、北海道で地震が起きたとして、東京の音楽フェスやコミケが中止になるとしたらどうでしょうか。この場合、両者に何の因果関係もありません。イベントを中止したところで災害の規模が小さくなるわけでも、被災者が元気になるわけでもない。
百歩譲って、
「今はイベントより救済が最優先だ」
ということで参加者が納得の上団結し、支援活動に邁進するならまだいい。でも実際には「不謹慎だから」やめるだけで具体的支援をするわけではないことの方が多いのではないでしょうか。
それって意味あるんですか?という話です。中止が目的、非難されないための単なるポーズになってしまっている。中止はあくまで手段であって目的ではないはず。
こうやって雰囲気に流されるようでは昔の全体主義の二の舞になりかねません。何が本質的なことか、しっかり考えなければならない。
もう一度言います。雰囲気に流されてはいけません。本当に大切なのは何か。それをじっくり考えることが重要なのです。
2.法律・道徳の限界と危険性について
社会で何か許しがたい事件が起きたとき、あるいは悲惨な自然災害に襲われたとき、私たちは法律や道徳を厳格化しがちです。というのも、この2つの災厄は人間や自然からの暴力であり、それに対抗する方法は暴力ではやく、理性(法規範)に基づくべきだ、と考えることが多いからです。だから規範を強めようとする。
しかし、実際には「法(規範)」を厳格化しても被害者を救済できるとは限りません。むしろ逆効果になることもある。
たとえば、飲酒運転を厳罰化しすぎると、処罰を恐れてひき逃げするリスクが高まります。実際にひき逃げの指名手配が出ました。こうなってしまうと、厳罰化された法は犯罪の抑止力とはならず、むしろ別の犯罪の引き金になってしまいます。
災害についても同様です。
「被害者がいるのに楽しむのは悪だ」
として活動を自粛すればするほど人間の政治経済・文化活動は縮小し、人々は孤立します。それは別の被害を発生させます。
コロナ初期のギスギスした雰囲気がまさにそれです。何でもかんでも「不要不急」の大合唱で行動制限をかけた結果どうなったか。鬱になったり、ストレスが溜まる人が増えた。場合によってはそれを苦にして自死を選んだ人さえいたかもしれません。それは本当に正しいことなのか、これもよく考えておく必要があります。
もちろん、法律や道徳が全くの無力だというわけではありません。厳罰化も度が過ぎると弊害を起こしますが、罰が軽すぎるのも妥当ではない。だからこそ飲酒運転や煽り運転は厳罰化されたわけです。
問題は、「法律や道徳を神聖視・厳格化」することによってのみ悪いことは撲滅できる、と盲目的に信仰することです。法律や道徳による規制は多少の歯止めにしかならず、根本的な解決にはなりません。
これが、法律や道徳などの「規範」の限界です。
3.過剰なポリコレ問題
次にポリティカル・コレクトネス、いわゆるポリコレについて考えます。「政治的正しさ」と翻訳されることが多いですね。人種や性別、身体的特徴や収入などで差別的取扱いをしてはならない、という規範です。
この規範自体は悪いものではありません。実際の歴史では野蛮な差別がまかり通ってきたので、それに対抗するためにはポリコレの考え方が必要ではあります。
ただ、昨今の風潮はポリコレを曲解しているようにも見えます。つまり、不当な差別をなくすための考え方としてではなく、自分が不快なものを排除するための道具として使っている。私にはそう思えるのです。
不謹慎狩りや自粛警察はまさに典型で、あれは彼らが不快に感じるものを排除するために、勝手な(彼ら基準の)規範を持ち出して非難を浴びせてくるわけです。そこにあるのは正しさ(コレクトネス)ではなく、エゴイズムです。
もちろん、不快なものがあっても一切排除はできず我慢するしかない、というわけではありません。あまりにも悪質・迷惑な場合は排除せざるを得ない側面もあるでしょう。
問題はその許容範囲です。
「自分(みんな)が不快なのだからそれはやめるべきだ」
と気に入らないことを何でもかんでも規制していけば、徐々に居心地の悪い空間になっていくでしょう。そこは互いに寛容の精神を発揮し、相手の個性や自由を認めることも大切です。
自由な社会とは、
「みんなが少しずつ他人に迷惑(許容可能な不快感)をかけても許される社会」
だと私は思っています。いわゆる「お互い様」の社会ですね。この方がよっぽど風通しが良い世界ではないでしょうか。
たとえば、私はタバコを吸いません。だからタバコの煙は不快ですが、かといって喫煙所を減らす政策を安直に賛美することもしません。喫煙所がなくなることと喫煙者が減ることに因果関係はないと思うからです。吸う人はどこでも吸うし、何なら喫煙所がなくなった影響で吸殻のポイ捨てが増える可能性もあります。
世間的には、
「タバコは健康に悪いし悪だけど、飲酒は楽しいから悪ではない」
みたいな風潮があるように思えますが、酒も飲まない私からすれば無理のある主張です。アルコールも充分、身体に悪い。
あと、喫煙者は別に嫌がらせをしてくるわけではないものの、酔っぱらいは下ネタを口にしたり、絡んできたり、下品下劣で粗野でしかありません。酔っぱらいの方が圧倒的に迷惑です。道路に寝てたりするし。
J.S.ミルが言ったように、「他者に危害を加えない限り」なるべく自由は認めるべきだと私は考えています。この「危害」の定義や許容ラインが難しいのですが、少なくとも
「自分が気にくわない」
だけのものは「危害」ではなく、主観的な不快感でしょう。その不快感のみを理由として他者の自由へ干渉することは、安易にすべきではない。もしその相手の言動が嫌であれば相手から距離を取って関わらないようにしたり、あまりにしつこい場合は法的措置をちらつかせて牽制すれば良い。
「不謹慎だからやめろ」の「不謹慎」は危害ではなく、単なる主観に過ぎない場合がほとんどでしょう。災害時にCMやイベントが観たくないなら、それを避ければいいだけの話。その辺を棲み分けしないで自分の価値観を押し付けるから、おかしなことになる。
4.明るさと朗らかさの偉大なる効用
そもそも、災害などで辛いときは深刻な気持ちになる「自粛」より、笑いやユーモアの方が大事になるケースも多いと思われます。
自粛した所で死者は蘇らないし、倒れた建物が元に戻るわけでもない。
むしろ明るい話題を探して笑ったり遊んだりしている方がよっぽど心が弾むし、復興に向けてのアイディアや活動エネルギーが生まれる可能性だってある。
もちろん、辛いときは辛いし、泣きたいときは泣けばいいと思います。問題は、辛くもないし悲しくもない人にまで「苦しみを強要すること」です。それは暴力でしかない。
辛くないのに辛いフリをしたり、悲しくないのに悲しそうに演じる必要はない。朗らかさや明るさが残っているなら、それに賭けた方が良い。なぜなら、そっちの方がよほど前向きで建設的だからです。
楽しいから笑う、ではなく、笑うから楽しい。このことを思い出して笑うことができれば、幾分か苦しみも軽減されることでしょう。
5.エゴイズムへの自戒としての自粛
ここまで自粛の問題点を挙げてきましたが、自粛のベースにある考え方に学ぶものはあります。他者を慮る気持ち、想像力です。
被災者のことを考えすぎて自分たちの楽しみを自粛するのはやり過ぎだとしても、被災している人が大勢いることは頭の片隅に入れておく。そうすれば、いざ支援ができるようになったとき、スムーズにそれができる。
気にしすぎもしないが、忘れもしない。そうした適度な距離感を維持するのも大切なことではないでしょうか。
以前話題にした
「配偶者の愚痴ばかり言う人」問題
も同じです。
あなたが文句ばかり言っているその相手は、もしかすると他の誰かが恋愛・結婚したかった相手かもしれない。それを頭に入れておけば不毛な愚痴に時間を費やすことはないだろう、ということです。
閑話休題。
とにかく、現代人が自分のことしか考えない「ナルシズム的性向」を持っているのは間違いないので、それを戒めておくことは大切です。
6.おわりに
というわけで、不謹慎狩りと自粛ムードに問題提起する記事でした。
何度も言いますが、必要なのは支援です。無駄な道徳論争で争えば争うほど支援は遅れます。それは本末転倒でしょう。
そんなことより、自分ができることをやりましょう。他人は気にしない。余計な口は挟まない。その方がよっぽど生産的です。
本質を見極めて迅速な意思決定ができる社会を目指しましょう。