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夏の甲子園に物申す~日本の歪なスポーツ観について~

最初に言っておこう。「夏の甲子園大会が好きな方」及び「甲子園の批判は一言も聞きたくない方」はこの記事を読まないほうが良い、ということを。今回は夏の甲子園、というか日本社会における歪なスポーツのあり方を批判する記事となっている。
一応断っておくが、私は別に野球は嫌いではない。少年時代は同級生と野球で遊んでいたし、その思い出は今でも私の財産である。徒歩旅の記事でも書いてる通り、身体を動かす楽しさ、競技としてのスポーツの楽しさも知っているつもりだ。
ただ、スポーツをやっている、運営しているのはあくまで人間であり、その人間の醜悪性によっては途端に酷いものになる、ということを指摘したいだけである。

そもそも、「スポーツは戦争の代替行為」とさえ言われている。まあ典型例はオリンピックだ。殺し合いは野蛮だから代わりにスポーツで競おう、というわけである。だから仰々しく国旗を掲げたり、勝った負けたで大騒ぎするわけだ。単純に競技として観るなら、別に国旗も国歌も必要ないのに、殊更それを強調する。スポーツが政治の道具にされているわけだ。
まあオリンピックの話は一旦置いておこう。今回は高校野球の話だ。
何度も言うが、文句を言われるのが嫌な方はここでブラウザバックすることを強くおすすめする。

まず猛暑が酷い炎天下の中、競技をさせるという残忍性。これに尽きる。「大人さん」たちは冷房が効いた部屋で仕事をしながら、球児たちには灼熱地獄で骨肉の死闘を演じさせるわけだ。これがどれほど残虐なことか。
せめて開催時期をずらし、涼しい季節に行うとか、冷房を効かせるとかいくらでも工夫できると思うのだが、一向に改善の気配がない。なぜなら、「夏に甲子園球場で野球をする」ことが既得権益になっているからだ。比較的涼しい(最近はそれも疑わしいが)北海道のエスコンフィールドでやったらどう?と私が言おうものなら熱狂的な甲子園ファンから袋叩きに遭うだろう。「夏の風物詩を台無しにする気か!不届き者め!」と。
何が風物詩だ。生命が危険になるレベルの暑さの中、スポーツという名の殺し合い(代理戦争)をさせることのどこが風物詩なのか?馬鹿も休み休み言え、と。
開催時期をずらそう、となったときによく言われる意見として、
「秋開催だと夏に練習することになり、かえって危険だ」
とか、あるいは
「開催を遅らすと学業に影響が出る」
というものがある。
一見、正論に見えるが実はこれはおかしい。

まず、既に日本は初夏の時点でかなり暑い気候になっている、という現実がある。いつ練習しようが熱中症などのリスクは避けられない。もちろん、気温が最高潮に達する真夏が最も危険なのは言うまでもないが、だからといって初夏であれば絶対安全、というわけでもない。そもそもこんな危険な暑さが生じないように緑を植えたり、街中アスファルトだらけにすることをやめればいいのに、そういうことは一切やらない。
根本的なことを間違えてるだろが。子どもが楽しく野球をすることすらできないのか?この国は、と言いたくなる。

次に学業への影響だが、そもそも学業に影響が出るレベルの過剰な競争をしているのがおかしい。甲子園に出るような強豪チームはほぼ間違いなく、血の滲むような練習を積んでいるはずだ。要するに練習のやりすぎである。もっと脱力してもいいはずだ。こんなことを言うと、
「何を言うか!必死で努力する姿、そこにすべてを賭けている姿が美しいのに、手を抜くとは何事か!」
という激しい攻撃が飛んできそうである。
ここにも日本社会の歪なスポーツ観が表出している。つまり、勝利至上主義、努力至上主義である。
誤解のないように言っておくが、努力そのものを否定はしない。結果を出すためにはある程度必要だろう。問題は、それを尊いものだと勘違いし、美化する風潮である。努力に美醜の概念は存在しない。努力というのは、ある結果を得たいがために、必要に応じて行う活動のことである。そこに美も醜もない。必要だからやる、ただそれだけの話だ。
この国では努力を無条件に賛美するきらいがある。「努力する姿は美しい」という形で。けれども、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だ。過剰な努力は必要ないばかりか、害悪ですらある。真夏の炎天下の死闘に向けて努力させるのは、美しいとはいえない。明らかに過剰だし、なにより残酷である。

そもそも学業への影響うんぬん言うんだったら、若年のアイドルなんかどうすんだ。全盛期のモーニング娘。たちが学業に支障がないレベルでアイドル活動できていたとでも思ってるんだろうか?当時のメンバーの証言によると、取材やダンスレッスン、バラエティ番組への出演で引っ張りだこ状態で、とてもまともな生活を送ることはできなかったらしい。睡眠時間も殆どなかったという。そらそうだ。当時は凄かったからな。
私はこうした、未来ある若者を使い潰すようなやり方には感心しない。学業に専念させたいなら、そもそも在学中にそんな大規模な大会なんかやるな、と思う。むしろ仕事に疲れた大人たちへの「レクリエーション」という形で大人向けのゆるい大会を開催した方がよほど生産的だと考える。
まあ、「おっさん達の草野球なんか見たくない!」と騒ぐだろうが、別におっさんだろうが若者だろうが、別にどっちでもいいだろが。未来ある子どもたちを潰すよりましだ。もっとも、おっさんたちにも未来はあるのだから、使い潰すような大会にしてはいけない。だからゆるいレクリエーションのようなノリで良いと言っているだけの話だ。
いい加減、努力神話をやめなさい。

で、次に勝利至上主義の話。言ってしまえば結果がすべて、という野蛮な資本主義的価値観である。スポーツも資本主義に毒されてしまったんですね、この国は。困ったもんだ。
勝利至上主義の典型例は、かの悪名高き「松井秀喜敬遠事件」だろう。当時の星陵高校屈指のスラッガー松井秀喜選手が5打席連続で敬遠され、松井選手は1打席も相手投手と対戦できず敗北した「事件」である。
確かに、ルール上は問題ないので、不正な勝利ではない。むしろ、それだけ当時の松井選手が恐れられていた証左であり、松井選手もこの悔しさがあったからこそプロ野球であれほど活躍できたのかもしれない。松井選手は後年、当時の投手と対談し、「(有名になれたのは)君のおかげだよ」と語っているし、「当時勝負してくれたとしても、打てたかどうかわからない」とも語っている。
しかし、だからといってこの不自然な敬遠を積極的に是認する根拠にはならないだろう。たとえ試合に勝ったとしても、釈然としない気持ちが両ナインに生まれただけではないだろうか。
本来、超高校級のスラッガーと対戦できるというのは、選手としては喜びのはずだ。それこそ三振にでも取れば一生モノの名誉になる。たとえ敗れたとしても、「自分はあの松井選手と対戦したことがある」という誇りが生まれるだろう。それは後々財産になるはずである。
しかし、勝利の二文字のためには、そうした財産は捨てなければならなかったのだろう。戦術的には正しかったのかもしれないが、スポーツ本来の目的に合致するものだったかどうか、永遠に問われ続けなければなるまい。
これは甲子園がトーナメント方式、つまり「負けたら終わり」だからこそ起きた事件である。リーグ戦ならそんなことは…いや、リーグ戦でも全打席敬遠されていた可能性はある。それほどの選手だったのだ。
それもこれも、勝利がすべて、という野蛮な価値観が支配しているせいである。正直言って、勝利がすべてのスポーツなんてやめたほうが私は良いと思う。そこには「礼」も「義」もない。戦争で言えば騙し討ちの類、卑劣の極みである。勝利がすべてなら、試合が終わった後、対戦相手と仲良くなることもできないだろう。
日本人はいい加減、スポーツで何を目指すのか、問い直したほうが良い。

以上です。子ども時代は好きだった甲子園大会でしたが、体育会的な野蛮さが目につくようになってからは一切見なくなりました。もちろん今年も見ません。野球自体は好きですが、野球を政治や権力や金儲けの道具にする人たち、負の側面を見ずに盲目的に観戦する人たちは嫌いです。風鈴の音色でも聴きながら詩でも編んでいるほうがよほど楽しいので。
それでは。

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