【中編】片側だけで感じる彼・彼女 No.3/11
神無と自宅で過ごすようになって、数か月が過ぎた。
俺たちは、この不思議な現象に見事に適応してしまった。
そのために、俺たちはいくつか取り決めを決めた。
やり取りをするのは、リビングとそれに続く廊下、玄関に限定する。着替えとかお互いに見られたくない場合は、リビング以外のところで済ませる。相手と話をしたい時は、相手の手首を掴んで知らせる。
また、お互いの大まかなスケジュールはある程度共有しておく。誰か他人を自宅に連れてくる時は、前もって伝えておく。等々。
片目をずっと閉じているのは、かなり大変なので、通販で片目用のアイマスクを買った。もちろん彼女が使っていたように耳栓も自宅に常備してある。右と左どちらを閉じるかは、場合によって変える。片方だけ使い続けるのも、良くないような気がして。神無も、俺が教えて、片目用のアイマスクを
購入していた。
結局のところ、自宅にいる間は、ほぼ彼女と一緒にいる。
話をすることもあるし、お互いに違うことをすることもあるが、2人でリビングにいる。どちらもこの生活を嫌だとは言い出さなかった。
でも、この関係って、いったい何なんだろう?
その疑問を棚上げし、俺は彼女と過ごしている。
その日も帰りが遅かった。
俺はいつもの通りに、玄関で真っ暗な部屋の中に向かって、ただいまの挨拶をする。前は明らかにその挨拶を聞く人はいなかったが、今は時折彼女が聞いている。彼女は俺よりも自宅に帰ってくるのが早い。が、俺の姿を認識しないと声は聞こえない。リビングから玄関を覗き込むことはできなくもないが、毎回玄関を見てはいないだろう。
いつも通りなら、彼女は既に食事も風呂も済ませて、リビングで本を読んでいるだろう。
リビングを通り過ぎて、寝室にしている部屋で、部屋着に着替えようとしたが、その部屋に行く前に手首を掴まれる感覚があった。
珍しい。いつもは部屋着に着替えて、リビングに戻った時に合図があるのに。
「どうした?神無。」
俺は足を止めて、バッグを足元に置くと、片目を閉じ、掴まれていない方の手の小指を耳に差し込んだ。
目の前に、彼女の姿が現れる。アイマスクをつけ、寝間着姿の彼女は、俺の顔を見ると口の端を引きつらせた。
「何かあったのか?」
「・・元カレが結婚するって。」
「俺に会う直前まで付き合ってたっていう人のこと?」
彼女と出会ってから数か月。かなりお互いのことを赤裸々に話し合っている。家族構成とか、恋愛遍歴とか、その他諸々。実在するのか分からない存在のためか、俺たちの口は軽くなった。でも、個人を特定できる情報を口にしようとすると、途端に聞こえなくなる。まったく、この現象は良く作られている。
「もう吹っ切ったって言ってなかったっけ?」
「でも・・私と別れてからまだ数か月しかたってないんだよ。私は彼と5年も付き合っていたのに。」
俺には明け透けに話していたから、もう気にしていないと思っていた。実は内心気にしていたのか。
「こればっかりは、縁だからね。」
「でも、でも。」
彼女がボロボロと涙を零し始めた。
「泣かないでよ。」
彼女の姿は見えているが、実体があるわけではない。片手でしか触れることのできない不思議な彼女。
「如月。寂しい。」
俺は片方の掌を、彼女の頭に載せて、できるだけ優しく撫でる。
「如月。。」
「ここにいるよ。神無。」
俺と彼女の距離は、この数か月でかなり近づいている。
一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、お互いのことを知れば知るほど。
彼女も俺の前でよく笑うようになったし、敬語も取れた。
それに、私生活の愚痴を話して、慰め合うこともある。
だけど、それはただ一番近くにいるから。そして、何を話したところで、自分の周囲にいる人にバレるわけでもないから。本当にいるかどうかわからない存在だから。
彼女は、俺が作った幻かもしれないのだ。幻にしては彼女の存在はできすぎていたけれど。
「如月?」
気づくと彼女が、俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「何?」
「急に黙り込んだから。何かあったのかと思って。」
「何もないよ。」
「ごめんね。帰ってきて早々こんな愚痴聞かせちゃって。」
「いいよ。それより、辛いことがあった時は、早く寝た方がいいよ。もしかして、俺の帰りを待ってたの?」
俺の言葉に、彼女は躊躇いがちに答えを口にする。
「如月に会って、話がしたかったから。」
「帰りが遅いこと知ってるだろ?そういう時は待たないで、寝た方がいい。」
「・・うん。ごめん。もう寝るね。」
「おやすみ。神無。また明日。」
「おやすみ。如月。」
彼女は手をひらひらと俺に向かって振ると、そのまま寝室にしている部屋に向かって歩いて行った。
俺の自宅と彼女の自宅。共に単身用の1LDKのマンション。
間取り図を書いて見せあったところ、驚くほど似通っていることが分かった。彼女が寝室にしている部屋は、自分も寝室にしている。
そして、この後俺も寝室に入って、着替え、その後シャワーを浴びて寝る準備をしなくてはならない。
本来なら、両目を開け、片耳を塞いでいる指も外して、寝室に向かうべきだろう。
でも、あそこまで落ち込んだ様子の彼女を見たのは初めてだった。徐々に彼女のことが心配になってくる。
俺はできるだけ、音をたてないように寝室に向かう。そして、開いたドアのところから、片目で中を覗き込んだ。
彼女がベッドの上で、こちらに背を向けた状態で寝ころんでいるのが見えた。そういえば、寝室の中のベッドの配置とかも聞かれたことがあった。もしかしたら、彼女がそれを受けて、自分のベッドの配置も変えたのかもしれない。
決まり事を破っていることは認識していたが、このままだと俺が安眠できないことが分かっていたから、アイマスクと耳栓をつけながら、ベッドの側まで歩み寄ると、彼女の顔を上から見つめる。目は閉じていて、胸は規則正しく上下しているようだった。見える右耳に耳栓はついていない。多分俺が帰ってくる前まで泣いていて、ベッドに横になったら、直ぐに寝付くことができたんだろう。泣き疲れていたのかもしれない。
俺は彼女の気分を上向かせるために、外に連れ出すことも、何か一緒に美味しいものを食べたりすることも、・・抱きしめることもできない。
恐る恐る彼女の頬に触れる。濡れた感触はなかったから、先ほど流した涙は乾いたのだろう。
頬を撫でていると、彼女の口元が笑みの形に緩んだ。
「・・好き。」
俺は彼女の寝言を聞いて、動きを止めた。俺のことを言ったわけではないと思いつつも、感情が揺すぶられる。
「俺も好きだよ。」
なぜ、こんな不毛な思いを抱いてしまったんだ。と思いながら、俺は彼女の寝言にそう答えた。
No.4に続く