【短編小説】私に答えてください。
毎朝、自宅から最寄りの駅まで、歩いている。
運動も兼ねてだが、ここ最近の暑さに、歩いている間にも、ばててしまいそうだ。
裏地に紫外線を防ぐ黒い生地が張ってあるという、より強力な日傘を手に入れた。今までは自転車を使っていたので、日傘を差すのは危ないし、帽子は面倒くさいと思って被らなかった。
だが、今年の日差しの強さは異常だ。15分くらい歩く間に、髪は異常に熱くなるし、駅に着く頃には、意識がもうろうとすることもあり、これは命が危ないと思い直して、日傘を買った。自転車を使わなくなったのは、体調を崩して、自転車に乗る気力が湧かなくなったからだ。まだ、歩く方が安全。
青い空に、白い雲。典型的な夏の光景を見ながら、頭の中で「暑いな」とつぶやく。すると、それに呼応するように、頭の中に声が響く。
「本当に。早く仕事を終わらせて、ビールでも飲みたい。」
どこかで聞いたことのある男性の声。ただ、誰だったかを思い出そうとすると、暑さのせいか靄がかかる。そもそも、梨帆は人の顔を覚えることが苦手。そして、今、彼女の周りにいる人物でないことは確かだった。
「ねぇ、今日も答えてくれないの?」
頭の中ですねたような感情の混じった声がする。
その声は確かに聞こえているが、梨帆はその声に答えたことはなかった。
梨帆が、その声に気づいたのは、いつだっただろうか。
自分の独り言に、男性の声が答えるようになった。最初は気のせいだろうと思っていたが、自分一人しかいない時や、そもそも口にしてもいないことに対して、応答が返るようになった。
梨帆は、この声が聞こえる原因は、多分今の自分の状況にあると結論付けた。考えてみると、ここ何年か、彼女は人と話すことがなかった。家に引きこもっているわけではない。仕事にも行っている。正確に言うと、自分のことや考えを、他人に話すことがないということ。
仕事中は、自分の手元にある作業に手いっぱいで、同僚とも、仕事の話しかしていない。学生時代の友達は遠く離れてしまい、ほとんど交流がない。それにネットやSNSの普及が追い打ちをかけ、直に話をすることがなくなった。
誰かと話をしたいのかもしれない。
そんな願いが、この訳の分からない現象を生んでいるのではないだろうか。
身近にそんな存在もいないから、仕方なく私は自分の中に別の人格らしきものを作り上げ、それと会話しているのでは?会話は正直成立してないが。
「今週末、近くで花火大会があるんだって。」
「それはいいね。行かないの?」
梨帆は、その声にはいつも通り答えず、目の前の夕飯に手を伸ばす。カニカマとカット野菜を合わせて炒めたものと、タイマーで炊いたご飯。一人で食べるのに、手をかけるのは馬鹿らしい。取り敢えず食べれればいい。どうせ量は食べられないんだし。
「・・はやく、夏終わらないかな。」
「そうかな。雨が降って、出かけられないより、よっぽどいいと思うけど。」
今日は、わりと律義に答えてくるなと思いながら、食べ終わった食器を洗い始める。水道から出てくる水すら、ぬるいのだから、やはり今年の夏は異常だと思う。
梨帆は、頭の中で応える声の相手を、セイと密かに名付けている。漢字を当てるとすれば、『声』。本当に梨帆自身が作り出した人格なら、セイが何と答えるか予想が付きそうなものだが、今までの答えを並べてみる限り、本当にセイという人物がそばにいて、答えているような様子さえある。
梨帆は、セイの答えが聞きたくて、わざと独り言をつぶやいている。セイの声に答えないのは、どうせセイは私だからという考えが大部分を占める。それにもし、一度答えて、そのまま縋り、いつかセイがいなくなった時に、落ち込むことになる自分が見えなくもない。
ある朝、あまりのだるさから熱を測ってみたら、38度を超えていた。
朝から体調が悪く、会社を休むことは、実はよくあることで、既に会社に直接連絡ではなく、上司宛にメッセージの一報で休むことができるようになっている。
案の定、上司からは「了解」の旨のメッセージが戻ってきた。重い体を引きずって、病院にも足を運んだが、ただの風邪でしょうという判断だった。今年の夏風邪は、高熱が出るタイプらしく、それ以外の症状があまり出ず、しかも、治っても微熱がダラダラと続くらしい。それもこれも、この暑さが原因な気がする。
食べられそうなものや飲み物を買いこんで、安静に寝ているしかない。
一人で病気になって、寝ている時が、一番孤独を感じる。
夢を見ずに眠れるのだけが、救いといえば救いだ。こんな時に見る夢は、悪夢に違いない。
生欠伸のせいか、高熱のせいか、目の前の光景が歪む。頬の下の氷枕を包んでいるタオルが、頬から落ちる雫で濡れる。いくら何でも気持ちが落ち込みすぎだ。久しぶりの熱に、一人で寝ているという今の状況に、自分の気持ちが大きく引っ張られて、引きずられるのが分かる。
「寂しい。」
「そばにいるよ。」
いつもの通り、セイが梨帆の声に答える。でも、そのいつも通りの声音が、梨帆の心のどこかを突いた。
「うそつき。」
「嘘なんて言ってない。」
言っても、どうにもならないことだと、分かっているのに、梨帆の口から出る言葉は止まらなかった。
「どうせ、私なんだから。もう、ほっておいて。」
「そんなこと、できないよ。」
セイは私だから。
欲しい時に、欲しい言葉をくれる。
答えてほしい時に、答えてくれる。
そんなの当たり前だ。
「嫌い。大っ嫌い。」
「・・。」
「もう、私の前から消えて。」
「梨帆。」
最後に苦しそうに名を呼ぶ声がして、その後は何も聞こえなくなった。
嫌いだ。こんな私なんか。
「おはよう。体調は大丈夫?」
「はい。なんとか。すみません。ご迷惑をおかけしました。」
梨帆は、上司に向かって、深々と頭を下げる。結局、あれから熱は下がらず、3日間も休むことになった。上司には熱が出た旨は伝えてあったので、それが周りに伝わっていたのか、口々に心配の言葉をかけられる。
セイは、あの日から、梨帆の言葉に答えてくれなくなった。自分から消えてと言ったのだから、自業自得なのだが。だが、答えてくれなくなって、改めて、梨帆は自分がセイの言葉に、既に縋る状態になっていたことを自覚した。今でも後悔している。
でも、後悔したところで、セイが戻ってくることはない。
上司は、梨帆の顔をまだ心配そうに窺っている。元気がないのは、病み上がりなのもあるが、セイがいなくなったことを気にかけているからだ。それを言うわけにはいかないので、梨帆はわざと笑みを強くしてみる。上司は、少し表情を和らげた。それから、思い出したように、言葉を続ける。
「大曾根さんが休んでいる時に、急に決まったんだけど、今日から。」
上司が最後まで言う前に、「おはようございます。」と言って、オフィスに入ってくる人物がいた。上司と2人で視線を向けると、見覚えのある笑顔で会釈される。
「・・北上さんですか?」
「出向から戻ってきたの。今日からまたこのオフィスで働くわ。」
北上は、3年前まで、このオフィスで肩を並べて仕事をしていた同僚だった。梨帆は、北上と同じ部署で、仕事内容も同じ。歳も近く、よく一緒に行動をしていた。仕事帰りに示し合わせて、飲みに行くことも多かった。梨帆も、北上には仕事の事だけでなく、自分のことを話していたように思う。北上が飲みの時に仕事の話をすることを嫌ったから。
出向が決まった時に、お互いの個人連絡先も交換していたが、結局、3年間一度も連絡を取り合うことはなかった。なぜ、連絡を取らなかったのだろう。いや、取ろうとは何度も思った。でも、もし連絡を取ってしまったら、そのまま頻度が増えて、そして。
考えている途中で、上司が頬に手を当てて、軽く息を吐く。梨帆は慌てて考えを打ち切った。
「以前と同じ仕事に戻るから、大曾根さんが3年間のこと、教えてあげてくれると助かるわ。」
「・・分かりました。」
「体調がすぐれないことは、前もって伝えておくから。何か、困ったことがあれば、言ってね。席も隣同士だから。」
梨帆の席の隣は空席だったが、今はパソコン類がセッティングされている。
休みの間に、それらの作業が行われたらしい。随分と急な話だったようだ。
パソコンを起動していると、隣の席に北上がやってきて、こちらを向いて、口を開く。
「久しぶり。今日からまたよろしく。」
梨帆は、久しぶりに聞く北上の声なのに、全く久しぶりと感じないことに気づいたが、深くは考えず、その言葉に頷く。
「うん。よろしく。」
「・・今日仕事終わったら、時間ある?よかったら、話したいことがたくさんあるんだけど。」
「いいよ。」
梨帆が即答したので、北上は少し戸惑ったように、頭に手をやる。
「即答かよ。でも、体調悪いんだよな。長い時間にならないようにするから。」
「私も話したいことがいっぱいあるから、気にしないで。・・まぁ、今日だけじゃないし。」
「そうだな。時間はいっぱいある。今日で終わらなかったら、明日も明後日も。」
「明後日は休みだよ。」
「そうだった」と笑う北上は、3年前と全く変わっていない。肌の色は白くなったような気がする。彼の出向先はここより北だった。梨帆がじっと彼を見つめていると、その視線に気づいたのか、起動したパソコンへ向けるように目を逸らす。
同じように起動したパソコンに向かって、メールや予定の確認をしながら、なかなか冷えない空調を感じ、梨帆が「暑いな」とつぶやく。それが聞こえたのか、隣で北上が「本当に。早く仕事を終わらせて、ビールでも飲みたい。」と答える。
その言葉に、隣で驚いたように目を見開く梨帆を見て、北上は楽しそうに笑った。
終
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