【短編小説】ファイトソング
「もし、何か一つ、麻生さんの願いを叶えてもらうとしたら、何を願う?」
久しぶりに会った、もう会うことはないだろうと思っていた相手が、そう言って、薄く笑う。
「一つの願い事?」
「そう、何でもいいの。前に語ってくれた夢を一つ叶えてもらう?」
「……夢はそんな風に叶えるものでもないし、そもそも他人に叶えてもらうものじゃない」
そう、麻生が答えると、「まぁ、確かにね」と相手も納得したように頷く。
「なら、夢を叶える第一歩で、お金を望んだら?」
「確かにお金は必要だけど、内容的に資金を集められると思うんだよね。全部自分で賄わなくても、賛同してくれる人を探せば。居場所を探している人は結構数いるだろうし。だから、別にいいかな。聞かれてばっかりだけど、実川さんは何を願うの?」
「……私も特にないかな。前に話した夢だって、麻生さんが言う通り、自分で叶えるものだし」
実川は、ふうっと細く長い息を吐いた。あまり体調は良くないようだ。麻生は、彼女の様子を気づかいながら、口を開く。
「何で突然そんなことを聞こうと思ったの?」
「麻生さんは知らない?都市伝説みたいなもの。選ばれた人の前に現れて、その人の願いを一つ叶えてくれる者の話。白い服、白い肌、中性的な面立ちをした人らしいって」
「見返りを求めず?無条件に?」
「一つを複数の願いに変えられないくらいかな。あと、願いを叶えたら、会ったこと自体忘れちゃう」
そこまで聞いて、麻生はフフッと笑ってしまった。
「そんなことないって思ってるでしょ」
「忘れるなら、話にもならない」
「……実際に会った誰かが、その体験を文章にしてたらしいよ。SNSに公開されて、拡散したって」
「夢物語のようなこと、よく公開する気になったな。公開する時には、忘れてる訳だから、読み直したら、こんな事あり得ないって思うだろうに」
「物語として広まったんだよ。皆、実話だとは思ってないでしょう」
そう言って、実川はまた特有の薄い笑いを見せる。彼女の心からの笑顔を、麻生は見たことがない。とはいえ、麻生と実川の付き合いは、とても薄く、お互いの夢を話し合った割には、一緒に活動はしていない。共に実生活が忙しく、連絡だって、頻繁に取ってない。麻生が実川のことで分かっていることなんて、多分、表面上のひとかけらだろう。
それでも、麻生は久しぶりの彼女との会話を楽しんでいる。夢の話だって、それほど周りに触れ回ってもいない。ただ、実川になら、話してもいいと思った。2人の出会いは偶然だったけれど、話が弾んで時間を忘れるくらいには、気があったということなのかもしれない。
それに、久しぶりに夢の話を他人と話すと、日々の忙しさに紛れて、忘れそうになる情熱を再確認できたような気がする。身近にいる人だと、関係が深すぎて、話をするのは躊躇するけれど、実川くらい適度で構い過ぎない関係だと、ちょうどいい。
「あまり、話が広がらなかったね」
「いや、皆は何を望むんだろうかと思った」
「私達は今の生活にとてつもなく絶望してるわけではないから、切実な願いが出ないのかな?」
「絶望は……してないかな。それなりに仕事も楽しいし、夢もあるし」
「贅沢言わなければ、日々過ごしていけるしね」
実川は、こめかみに手を当てた。相変わらず血の気のない白い肌。
「体調……悪そうだな」
「まぁまぁかな」
「さっきの一つの願い、体調を回復してほしいって頼めばいいんじゃないか?」
「……これは病気じゃなくて、老いだと思うんだよね」
「まだ、老いるような年じゃないと思うけど……。じゃあ、若返らせてほしいとか?」
「平均なら人生の半分くらいだし。若返ったら、またその分生きていかなきゃならないでしょ?私は、もう充分生きたよ」
「それを言うのもまだ早いよ」と軽口を叩いてみせると、ほんの少し実川の表情が緩んだ気がした。彼女は視線を手元のコーヒーカップに落とす。それにつられたように、麻生がスマホ画面に表示された時刻を確認したら、2人で会ってから2時間が経過しようとしていた。今日は夕方に仕事の打ち合わせが予定されている。準備の時間も考えると、実川と別れないとならないだろう。
「そろそろ、戻らないと」
「今日は、急にありがとね」
「いや、連絡くれてよかった。久しぶりに会えて話せて嬉しかった」
「仕事が忙しいと思って、気後れしちゃって、連絡できなかったんだ」
「いつでも連絡くれていいのに。忙しかったら忙しいって言うし」
「そうだね」と言って、実川は少しだけ安堵したような笑みを浮かべた。もう少し残って、仕事をしていくと言う彼女に、テーブルの伝票を取って、「じゃあ、また連絡する」と手を振って別れようとすると、実川が手を伸ばし、麻生の服を引っ張った。驚いて掴まれた部分を眺めていると、必死な様子で実川が言葉を紡ぐ。
「私は、ずっと麻生さんの夢、応援してるから」
「それは、前に会った時から、言ってくれてたよね?」
「手伝えることとか、私が必要になることは何もないかもしれないけど」
「……もう少し形になったら、実川さんの助けを必要とすると思う」
「本当に?」
「だから、実川さんも夢を叶えよう。僕も応援してる」
「ありがとう」
名残惜しそうな様子で店を出ていく麻生を見送った実川は、コーヒーを一口すすって、目を閉じた。
目を開いた視界に入ったのは、青空と脇に立って見下ろしている白い人の姿だった。
「本当にこれで良かったのですか?」
相手の問いかけに答えようとして、口を開いたが、口から洩れるのは声にならない息ばかり。それでも、相手には伝わったらしい。白い服、白い肌の人物は、青空に浮かんだ雲のように映えて映った。
実川は事故にあった。気づいたら道路に寝転がっていた。体は全く動かないし、声も出ない。実川は仕方なく青空を見つめる他なかった。その内、救急車が呼ばれ、病院に運ばれるんだろう。助かるのかどうかも分からない。このまま死んでしまうのかも。そんなことを考えていたら、実川の固定された視界に、自分を見下ろしている人が現れた。
髪は短く、年齢は自分と同じくらい。中性的な容姿。白のオーバーサイズのパーカーに、白のチノパン。スニーカーも白。年齢にそぐわない服装が、相手の存在の異質さを際立たせていた。肌も白い。だから、実川は相手のことを心の中で、白い人と名付けた。
「貴方は選ばれました。貴方の願いを一つ叶えましょう」
実川はそれに応えようとするが、口がパクパクと開くばかりで、声に出せない。白い人は、答えを求めていないのか、自分がどういった存在かを、淡々と説明し始めた。
彼の役目は、選ばれた人の元に行って、一つの願いを聞き、その願いを叶えること。願いを叶えれば、彼はこの場から消えるし、彼と会ったことすら願った本人は忘れてしまう。
願いは何でも構わない。お金、地位、名誉、永遠の命、病気の治癒その他諸々。願いが叶うと、それに合わせて周囲も矛盾がないように補正され、願いが叶った本人も、その事を忘れてしまうから、何の問題もない。
叶えられる願いは一つだけ。それを複数に変えることはできない。
この状況だから見られる夢なんだと思った。それを証明するかのように、辺りはとても静かで、実川はいつまでたっても意識が途切れないし、誰かがそれに割って入って邪魔をすることもない。それに救急車のサイレンも聞こえてこなかった。
「願いを一つ教えてください」
「麻生さんと会って話がしたい」
実際には、実川の答えは声にならなかったが、白い人は分かるらしい。大きく頷いた後、さらに質問を続ける。
「麻生さんとは誰ですか?思い浮かべてください」
実川は、麻生の面影などをできる限り、頭の中に思い浮かべる。
「でも、貴方は他のことを願った方がいいのでは?どう見ても死にかけてますし」
「私は別に死んでもいいの。もう充分生きた。生きるのに疲れていたから」
白い人は分からないというように首を傾げる。
「なぜ麻生さんに会いたいのですか?」
「私が唯一夢を語り合った人。彼は真剣に聞いてくれた。でも、お互い仕事が忙しくて、連絡を取るのが躊躇われて、もう会うことはないと思ってた。最後に、私はいつまでも彼の夢を応援してると伝えたい」
「心残りというわけですか?」
「そう。死ななかったとしても、私は無事では済まないでしょう?この機会じゃないと会えない」
白い人は、軽く頷いて、実川に向かって、手を翳した。その後、急速に意識が薄れて、気づいたら、麻生とどこかのカフェで向かい合っていた。実川が麻生に白い人の話をしたのは、彼なら何と答えるか聞きたかったからに過ぎない。
「私と彼は本当に会ったことになるの?」
「貴方がこの先、生きるか死ぬか、それに合わせて矛盾のないよう世界が変わります。先ほど説明した通り。別れた後に事故にあったことになるか、それらはいつしか見た夢だったか、どうなるかは私には分かりません」
「でも、会って話せてよかった」
「もう一度聞きますが、本当にこれで良かったのですか?」
「……ちょっと、死にたくないって思ったかも」
「願いを叶える前は、死んでもいいと言ってました」
「自分の夢を応援してくれる人がいるって分かると、やれるところまでやってみてもよかったかも、と思った」
白い人は、実川の言葉に目を見開くと、その後、声を立てて、「不思議ですね」と笑った。
「こんなに時間が経ってるのに、なぜ私たちはこんなに穏やかに話をしてるのかしら?」
「……私が介在している間、時はほとんど動いてません」
「そうなの?」
「よく人が死ぬ直前に、これまでのことを一気に思い起こすとか、口が動いたりしますよね?私は他の人には見えないので、傍から見るとそんな感じです」
「走馬灯ってこと?やっぱり私は死ぬってこと?」
白い人は唇を弧の字にしたまま、実川の問いには答えなかった。
「そろそろお別れの時間が来たようです」
白い人の言葉を皮切りに一気に周囲の気配や音が戻ってくる。実川の頭の中も急速に靄がかかったように暗く重くなり、何も考えられなくなる。瞼が閉じる前に、白い人が、とらえどころのないふんわりとした笑みを浮かべて、口を開いた。
「貴方の願いは叶えました」
打ち合わせ先に向かう最中に、交差点付近に人だかりができていた。ちょっと気になって、足を止め、人だかりの視線の先を窺ったが、人の頭ばかりで何があるのかは分からない。人々が口にする言葉に聞き耳を立てると、交通事故があり、怪我人が出たと分かった。意識はないらしい。しばらくしたら、救急車のサイレンが聞こえてきた。事故にあった人が助かればいいと思いながら、音の流れていないヘッドフォンを装着し、その場を離れる。
麻生の耳に、夢への応援歌が聞こえる気がする。それを歌うのは、多分、君。
終