【短編小説】人魚姫症候群
その現象がいつから発生したのかは、よく分かっていない。ただ結果として起こる事象ははっきりしている。
人が消える。
それこそ、体の端から、泡のように空に弾けて消えていく。
その様子から、『人魚姫症候群』と、まことしやかに囁かれるようになった。
なぜ、その現象が起こるのか。それは早々に判明する。それは特定の事柄を行わないと発生しない。そして、必ず相手が存在する。つまり、必ず『人魚姫症候群』のきっかけとなる事柄を見ている人が存在するということ。
中には、それを自らの危険を顧みず、実行した人物もいて、そのきっかけとなる事象は、主にネット経由で瞬く間に広がった。人々は、『人魚姫症候群』を認めたが、特定の事柄を行わなければいいと分かっているので、その危険性は重要視されなかった。
それなのに、『人魚姫症候群』で、消える人は一定数存在する。自分の気持ちを内に秘めたままにはしておけないためか。それとも、自殺目的で、利用する人がいるのか。ただ、本人の気持ちが伴わないと、消えることはできないらしいので、命を絶つのであれば別の手段を取る方が、確実ではあるのだが。
そのきっかけとなる事柄は・・。
1
彼女に別れを告げた。
僕の言葉を聞いた彼女は、目の前で綺麗な瞳を揺らめかせた。
「何で?突然。私、何かしちゃった?」
僕に縋って、そう言う彼女の様子を見て、僕の心が悲鳴を上げる。
「紗耶香は何も悪くない。」
「じゃあ、何で?」
彼女が理由を問うのも当たり前だ。数日前まで、僕たちの関係には何一つ問題はなかった。
「・・・他に好きな人ができたんだ。」
「・・嘘。」
泣くかと思っていた彼女は、突然訝しげに、僕の顔をジロジロと眺め出した。
「嘘なんかついてない。」
「何年付き合ってきたと思ってるの?5年だよ、5年。」
「だから、本当だって。」
「凌平は、嘘をつく時、目の端が動くんだよ。」
そう言われて、思わず自分の目尻に手を当ててしまった。それを見た紗耶香は、得意げに口の端をあげる。その表情を見て、僕は彼女に担がれたことに気づいた。
「私と別れたい本当の理由を教えて。」
「・・それは言えない。」
「何があったの?」
「・・・。」
口を噤んだ僕を見て、彼女は困ったような心配そうな表情を浮かべる。でも、しばらくすると、覚悟を決めたように口を開いた。
「なら、私も最後の手段に出る。」
「え?」
「私は、凌平のことが。」
「だめだ!」
彼女が何をしようとしているのか気づいて、僕は大声を出して彼女が全て言おうとするのを制した。
「本当の理由を言ってくれないなら、告白する。それにこれは私の本心だし。」
「紗耶香も知ってるだろう?人魚姫症候群。」
「動画も見たからね。思ったより綺麗だったよ。」
「何言ってんだ。消えるんだよ。」
僕は目の前で紗耶香が消えるのを見たくはない。紗耶香に幸せになってほしいから、本当の理由を言わずに別れようとしているのに。
「消えてもいい。凌平のことだから、私のことを考えて別れようとか思ってるでしょ?私のことを本当に思ってくれるなら、ちゃんと理由を言って。何とかなるかもしれないでしょう?」
「・・・父親の体調が良くなくて。」
彼女が僕の言葉を聞いて、目を見開いた。「それで?」と先を促される。
「一旦検査を兼ねて入院することになったんだけど、もう両親も高齢だし、子どもは僕しかいないから、実家に戻ることにしたんだ。」
「だから、私と別れようとしたの?」
「あちらに、紗耶香は家族も友達もいないし、僕たちは結婚しているわけでもないし、紗耶香に一緒に行こうとは言えなかった。」
彼女は僕の話を聞いて、大きく息を吐いた。
「最初からそう言ってくれればよかったのに。」
「・・・紗耶香に心配はかけたくなかったし、負担をかけるのは嫌だった。」
「だから、いっそのこと別れようって?それはそれで無責任じゃない?」
「それはどういう意味?」
「そんなことで、私は凌平と別れようと考えるほど、凌平のこと軽く考えてはいないってこと。」
紗耶香は自分の体にその身を寄せた。ギュッと抱きしめられて、僕はその強さに何も言えなくなる。
「私は凌平のことが好き。だから、一緒に連れて行ってほしい。」
彼女の事を見下ろすと、彼女は僕と視線を合わせる。彼女の体はいつまでたっても消えない。それは『この恋が叶わない恋ではないから』だ。
「僕も紗耶香とずっと一緒にいたい。」
僕は腕の中の彼女の体を抱きしめ返した。
2
暮れ行く空を眺めていた。目の前で家々の明かりが灯り、徐々に暗闇の中に明かりの海が広がってくる頃、隣に立っていた彼女がこちらを向いて、ぽつりと呟いた。
「そろそろ行かないと。」
「そうだね。今度はいつ会えるかな。」
俺がそう返すと、彼女は街灯に照らされた顔を曇らせる。
「もう、会えないよ。分かっているくせに。」
「分かってるけど、ずっとそうやって別れてきたから。」
彼女が実家に帰ると言って、俺と会うようになってから1年。実際、実家には帰っていて、嘘をついているわけではないけど、その合間に、実家近くの俺の家に寄っていくようになった。
学生時代には恋人同士だった俺たちが、もう一度会ってしまったのが、よくなかった。そもそも住む場所が遠く離れてしまったことによる自然消滅で、嫌い合って別れたわけではなかった。結婚し子育てが落ち着いて、高齢の母親の様子を見に1ヵ月に一度、実家に一人で帰ってきていた彼女と、同じ時期にたまたま実家に戻っていた俺が、再会しまた惹かれ合うのに時間はかからなかった。
だが、彼女は配偶者の転勤が決まり、家族そろって遠くに引っ越すことになった。もう、簡単に実家には帰ってこられないと言う。それを機に、歪だった俺たちの関係を清算することにした。
言ってしまえば、俺たちは今の関係を続けることに耐えられなくなったのだ。主に彼女の方が。それを責めるつもりは全くない。
たった1年であっても、俺にとってはかけがえのない1年だった。だから、俺は今日のことを実行する気になったのだから。
「小雪。」
「大嗣。本当にごめんなさい。」
「いいんだ。最初から分かっていたことだから。」
「でも、私のせいで。」
「話し合って決めた事だろう。」
「ごめんなさい。」
いつまでも謝りを口にする彼女に、俺は顔を近づける。これが最後だと思うと離れがたかった。そして、俺はいつまでも彼女の心の中にいたいと願ってしまう。
「小雪。俺はお前のことが好きだ。これからも。いつまでも。」
「・・大嗣?」
長いキスの後に、視線を合わせて、そう言い切った俺の顔を見つめた彼女は、ハッとしたように体を強張らせた。
「大嗣。何で?」
「俺は、小雪がいないと、もう生きていられない。」
彼女が俺の体のあちこちに視線を走らせる。自分でも彼女の視線を追うと、俺の体の端が泡立って、欠け始めていた。
「だめ、消えちゃだめ。」
慌てたように俺の欠けた部分に手を這わせる彼女の手を取って、指と指を絡めた。
「別れても、俺のことを忘れないでほしい。」
「私も、私も大嗣のことが。」
「その先は言わないで。小雪には家族がいる。皆が悲しむ。」
「でも、でも。」
「俺は、この1年で十分だ。だから、小雪は家族の元に戻って、幸せになって。」
もっと、話していたかったのに、もっと、彼女の顔を見ていたかったのに、思った以上に消えるのは早かった。
見届ける相手が、告白する相手がいなければ、『人魚姫症候群』が発動しないと思いたい。そうであれば、彼女が俺を追って消えることはないだろうから。
最後に見た彼女の顔が、笑顔ではなく泣き顔だったのが、心残りだ。
3
「好きです。僕と付き合ってください。」
「いいよ。」
僕が顔をあげると、相手は僕の様子を見て、ニッコリと笑った。
「思ってもないことを言われた。そんな顔をしてる。」
「いや、だって。」
まごついていると、彼女は僕の肩に手を当てた。
「もしかして、消えたかった?」
「・・・。」
彼女の言葉が的を得ていて、僕が答えられないでいると、「まぁ。取り敢えず座ろうよ。」と言って、彼女は教室にあった椅子の一つに座る。僕もその様子を見て、近くにあった椅子を引いて、彼女の側に座った。
黒目がちな目をこちらに向けた彼女の顔立ちは、可愛いと言うより綺麗と言った方がいい。学校では、男子生徒に人気があるが、何となく近寄りがたい雰囲気があって、皆、遠巻きに眺めているところがあった。それだけ綺麗だと、女子の反感をかいそうだが、彼女は女子とは普通に楽しそうに付き合っている。男子と女子とで、彼女は見せる顔を変えているのかもしれない。
だから、好きでも、きっとこの気持ちは受け入れられないだろうと思った。それでもよかった。僕は今の人生に何も期待をしていないから。
告白して、その結果『人魚姫症候群』が発生して、僕自身が彼女の前で、泡となって消えてしまっても構わない。少なくとも、彼女はその情景を綺麗だと思って、心に焼き付けてくれるだろう。もしかしたら、少しは罪悪感を抱いてくれるかもしれない。そんな馬鹿な奴がいたと、生涯忘れずにいてくれるかもしれない。
そう思って、告白したのだけど。
「ねぇ、福山くんは、私のどんなところが好きだと思ったの?」
「えっと。」
好きな子から、どこが好きだと聞かれるのは、気恥ずかしい。何と答えればいいのだろう。でも、何が正解なのかは分からない。
「風間さんは、困っている人を見ると、放っておけないところがあるでしょう?よく、手助けしているなと思ったら、目につくようになって。」
そう言ったら、彼女は思ってもないことを言われたというように、口を開け、その後、顔を真っ赤にさせた。先ほど、告白を受け入れられた時の僕も今のような顔をしていたのかもしれないなと考える。それにしても、顔を赤くさせた風間さんは、とても可愛い。ちょっと意外だった。
「なにか、変なこと言った?僕。」
「いや、てっきり外見のことを言われると思ってたから。」
「確かに、風間さんは綺麗だけど、黙っているとちょっと近寄りがたいかな。それよりも笑っていた方がずっといいと思う。いや、待てよ。笑っていると他の奴が風間さんの良さにより気づくから、やっぱりだめ。」
僕が慌てて言い募ると、彼女は一瞬キョトンとした顔をして、笑い出した。僕は、彼女の笑顔に見とれてしまう。
「福山くん。私は福山くんと付き合うことにしたのに、今更他の男子が私の良さに気づいても遅いでしょ?」
「あ、それは確かに。」
「それに、福山くんがそう言うなら、他の男子の前ではあまり笑顔を見せないようにするよ。」
「・・・なんで、風間さんは僕と付き合ってくれる気になったの?」
僕の言葉に、彼女は口を噤んで考え込んだ。考え込んでいるくらいだから、きっと僕のことが好きで、告白を受けたわけではないのだろう。
「もしかして、僕が目の前で消えるのが嫌だから、告白を受けたわけではないよね?」
「違うよ。正直に言うと、私、人を好きになるっていうことがよく分からないの。」
彼女は、机の上で頬杖をついた。
「あの『人魚姫症候群』の動画は、家で繰り返し見たの。とっても綺麗だった。でも不思議でたまらなくて。何で、泡となって消えられるほど、人を好きになることができるんだろうって。」
『人魚姫症候群』の発生のきっかけ。それは、叶わない恋だと分かっているのに、相手に自分の思いを告白すること。しかも、ちゃんと想いが伴っていないといけない。冗談や嘘で告白しても、『人魚姫症候群』は発生しない。
「福山くんは、自分が消えるかもしれないと思って、私に告白したでしょう?だったら、福山くんは、人を好きになるってことが分かってるってことだよね?」
「そういうことになるかな?」
「だったら、私にそれを教えてほしいの。」
「・・・僕だって、好きな人に告白するのも、付き合うのも、初めてなんだけど。」
彼女は僕の手を取って、胸の前で強く握りしめた。
「それでも、私よりは恋について知ってるでしょう?」
「・・そうなのかな。」
少なくとも、この告白が受け入れられなかったら、消えると思ったのは確かだ。
「だから、私に恋を教えて。私、絶対に福山くんと同じ気持ちを返せるようになるから。」
「・・僕にできる範囲なら。」
何となく、自分が思っていたのと違っていたけど、まぁ、好きな人と付き合えることになったから、いいか。
僕はそう思って、目の前にいる彼女に微笑みかけた。
終