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ロラン・バルトから遠く離れて(嘘)

ただ、ユートピアとしては、書くこと(エクリチュール)によってそれが可能となるのだから、今後は書く企てが私の人生の唯一の目的となるのでなければならないのである。

『明るい部屋 写真についての覚書』p.87, ロラン・バルト著、花輪光訳、みすず書房、1985年

 上のロラン・バルトの企ては、彼の突然の死によって永遠に延期されたことは、皆さんご存知。
 というか、結構な量の文章をさいきん、書いてきて、なんだか、ある意味不本意に、文章を、書くものではない、な、というのが、最近の、心境、なので、ある、が。

 こうして振り返ってみると、無闇矢鱈に文章を書いて、そして、他人に提示する。というのは、骨が折れるし、だいいち、5月と6月の文章量はハンパない。我ながら気が狂っていると思う。だから、「選曲」という作業へと向かったのだし、それはそれで良いとしても。

 そういえば、「ニューヨーク・ヘルソニック・バレエ」のCD(シーデー)も届いたことだし(中古)、僕は、最近、初めて図書館の「大切な資料」を水濡れによって損害を被り、「弁償」という行為を遂行しつつある。先ほど、その「資料」(新品)が届いたところだ。こうして、一市民としての「義務」(的な何か)を果たそうとしている。これが、「政治的な正しさ」なのだろうか(違う?)。

 まあ、そんなことは良いとして、やっぱ、現代人=僕は「健康」から遠く離れるべきだと思う。どういうことか?

 っていうのも、さっき買った「機能表示飲料」なるものを購入し、その「脂肪の分解」に「効果」があると言われる炭酸水を飲んだのだが、これがまずかった。文字通り、まずかった(不味かった)のである。

 巷間言われるようなサプリでは無いにしても、「健康」(を謳うもの)から遠く離れるべきだろう。「健康」は一種の状態であって、「買う」ものではない。健康は目指すべき状態だとしても(それはそれでいいんだけど)、「けんこう」という二文字あるいは四文字から目を背け、安易に「けんこう」を手にすることを避けたい。これは決意です。

 全てを「うまいか否か」で判断するのも申し訳ないが、不味いのだから仕方ない。すぐ違うコンビニで「通常の炭酸水(レモン風味)」を購入したのは言うまでも無い。


 嗚呼、バルトの言葉(エクリチュール)にならうなら、私にとって「書く」ことがユートピアを可能にするのだろうか?(私にとってはそれは多分違うと思う)

 と言うのも、僕はただ単に「自己表現」をしたくて、文章を書いているのかもしれないし、それは100%否定できないが、おそらく本音はそうじゃないはずだ。そう信じたい。今は書くことと、運動すること、映画を見て、音を聞くこと。(あとはバイトしたり、そういったことなど)それらを通してしか(あと選曲も)、世に提示できない。これはもどかしい。非常にもどかしいのだが、「映画」は1人では作れない。おそらく。僕が目指す「映画」は、純粋な「個人作業」ではなく、純粋な「共同作業」だ。これは、願望(決意)です。そして断定できる。

 とある映画俳優の動きを「AI」に学習させようとかなんとか申し上げてみたものの、書いた本人にもうその気がないので(すみません笑)、居るとも知れない「読者」にアイデアを譲るが(無償だけど、ね?わかるでしょ?)、やーぱり、えいがは、がっこでべんきょするしかないのかもなあ。
 なーんにしても先立つものがないので(お金)、働いて働いて、それを得て考えよう(資本主義がそこにある限り!)。時間はまだあると思う(そう信じたい)。

あ、そうそう今日(六月三〇日)、新文芸坐で「ソナチネ」を見てきて、劇場で見るのは勿論初めてだから舞い上がるかと思ったが全然そんなことはなく、単純に「画面」と「突然の銃声」(爆発も)に酔いしれたのでした(脚本・編集 北野武)。「その男、凶暴につき」がベストテン第一位なのは言うまでもないにしても、「ソナチネ」の頃の「ビートたけし」は色気がすごかったなあ。おそらく「死」(自死)の願望に取り憑かれていたからだと思う(くわばらくわばら)。とかなんとか言ってると、「てめえに何がわかんだ、バカヤロウ!」と凄まれる可能性も否定できないので、迂闊にモノを書くものではないなあ、と思ってたらいつのまにか七月一日。

 

iPhoneの機能がいいからと言って様々な機能を試してみたものの、何の気無しに撮った写真が一番良かったりするのは何で?

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