浜崎あゆみ論①
僕の一部は浜崎あゆみでできている。
浜崎あゆみと聞くだけでテンションが上がる。
気付けば「浜崎あゆみ」と検索している。
浜崎あゆみの曲は多分毎日聴いている。
なんなら毎日歌っている。
だけど、浜崎あゆみのことを「痛々しい」という人がいたとしても、
「うんうん分かるー」と同調できる。
浜崎あゆみのことを「昔の方がいい」という人がいたとしても、
「おれもー!」と共感できる。
そう、浜崎あゆみとはそういうものなのだ。
唐突だけど、こないだインドネシアに行った。
インドネシアで出会った人たちは、イスラム教を信仰していた。
イスラム教が心の拠り所なのだろう。
だけど、そのとき出会った人が教えてくれた。
「中にはお祈りをしない人もいるよ」と。
「ギャングは多分お祈りしていないよ」と。
だけど、そんなギャングたちの中には、
もしかしたら「ケッ」と思いながらも、
どこか捨てきれないと感じているギャングも
いるのかもしれないね。
(完全に予想です。要は思い込み。)
おそらく、僕の浜崎あゆみの好きになり方はそういうものに近い。
「あゆ、こうなって欲しいな〜」
「あゆ、なんでこうも迷走してるんや」
そんなことを思うし、そう呟きながら、
「なんて人間らしいんだ」
「俺もこういうとこあるわ…」
と受け止めている。安心すらしている。
俺にとってあゆは女性でもない(女性だよ)。
歌手でもない(歌手だよ)。
なんなら人間でもない(人間だよ)。
俺にとってあゆは研究対象に近い(失礼)。
時にあゆの人生に自分を投影しながら、
あゆはこの時こう考えているのか…
と曲を分析したりする(クセ強いね)。
これって、人生の指針の1つだよね。
宗教を信仰する人に教典があって、
それが意思決定に影響を与えているならば
(人によって程度はあるけども)
僕は特定の宗教をもたないけど、
僕にとって、浜崎あゆみというものは
そういうものなのかなぁと思う。
さてさて、このnoteでは、
浜崎あゆみというものを語ろうと思います。
僕がなぜ、浜崎あゆみを面白いと思うのか、
そんなことを語っていこうと思います。笑
(出典:A BEST「浜崎あゆみ」/SEASONS「浜崎あゆみ」)