さすらい駅わすれもの室(原作:今井雅子)外伝「想像をかりたてる余白」

さすらい駅の片隅に、ひっそりと佇む、わすれもの室。そこがわたしの仕事場です。 ここでは、ありとあらゆるわすれものが、持ち主が現れるのを待っています。 傘も鞄も百円で買える時代、わすれものを取りに来る人は、減るばかり。 多くの人たちは、どこかに何かをわすれたことさえ、わすれてしまっています。

だから、わたしは思うのです。ここに来る人は幸せだ、と。

駅に舞い戻り、窓口のわたしに説明し、書類に記入する、 そんな手間をかけてまで取り戻したいものがあるのですから。

立春過ぎにも関わらず、いまだに北風が吹きすさぶ日の午後。

焦りを落ち着きで包む声に、わたしは窓口へと急ぎました。

「この近くでBARを経営しているのですが……」

お酒があまり飲めずほとんど外食をしないわたしは、駅の周りの飲食店は全く知りませんでした。もちろんマスターと顔を合わせるのも初めてです。にも関わらず、マスターの声はどこか心地よく、聞き慣れている印象を受けました。

「看板の頭の何文字かが消えてしまったのです」

強風で文字のタイルが飛ばされてしまったのかとわたしは思いましたが、違うようです。

「看板の文字だけではありません。私の頭の中からもぽっかりと」

そう言うと、マスターはお店の写真を見せてくれました。

残されていたのは、ひらがなの「か」と「り」とアルファベットのB-A-R。

『〇〇かりBAR』

「かり」の前には何文字でも入りそうなくらい十分な余白がありました。

記憶のとっかかりを見つけようと、手がかりになりそうなことを聞いてみることにしました。

——ホームページやお店のカードなどは?

「お客様は口コミで来られるのでそういうのは……」

——レシートや領収書に書いていませんか。

「レシートは出していませんし、めったにない領収書もすべて手書きで……」

お店の中になければ外に活路を求めることにしました。

——常連さんなら覚えているのではないですか?

「ええ、今朝お店の前を通ったお客さん達に聞いてみたんです。そうしたら、みんな真剣なのかふざけているのか、てんでバラバラなことを言うんですよ」

うっかり、ちゃっかり、しっかり、かしかり、月明かり、しばかり、すっかり……。

わたしはすっかり困ってしまいました。ですが、こうしてわすれもの室を頼ってくれたマスターをがっかりした気持ちのままお帰しするわけにはいきません。

「でしたら、お客さん1人1人が自分でBARの名前を決めるというのはどうでしょう」

思わず口から飛び出した言葉に、わたし自身が驚きました。と同時に、軽はずみな提案だったと後悔の念が湧き起こりました。

名前というのはつける人の希望や意図を少なからず反映するものです。文字が消える前の名前も、マスターの想いが込められたものだったに違いありません。その名前を取り戻すことはマスターにとって命を賭してでも叶えたいことでしょう。それを、初対面のわたしが変えてしまってよいはずがありません。

わたしはマスターが不機嫌になってはいまいかと、恐る恐る顔色を伺いました。

マスターの唇がわなわなと震えています。やはり勝手に名前に手を加えることがマスターの怒りを呼んだのです。お叱りを受けることを覚悟して「申し訳ございません」と言いかけました。

ところが、マスターの口から出た言葉はわたしの予想したものではありませんでした。

「おもしろい!」

ぽっかりと空いた口が塞がりませんでした。

「お客様がBARの名前を決める! そんなこと考えもしなかった!」

マスターの目は河原で綺麗な石を見つけた子供のようにキラキラと輝いて見えました。

マスターはわたしの手を取って何度もお礼を言って帰って行きました。

『〇〇かりBAR』

わたしなら、どんな文字を補うでしょうか。

もしもわすれもの室でBARを開店するとしたら、いくつか店舗が必要になるかもしれません。

マスターがいそいそと帰った後にそんなことを考えながら、定時きっかりにその日の業務を終えました。

しっかりと戸締りを確認し、鍵を戻しに駅長室に行きます。

タイムカードが退勤時間をかりかりと記録します。

駅長室を出たところで、誰かとぶつかりそうになりました。手すりに寄りかかりながらなんとかバランスを保ちます。キラキラ光る帽子を取って会釈する姿に、わたしは会釈で返しました。

今ごろは夜のかかりさんがわたしの椅子にどっかりとふんぞり返っていることでしょう。

突然、わたしは自分のうっかりに気づきました。マスターにBARの住所を聞くのを忘れてしまったのです。

この近くで開店しているなら、人伝ひとづてに噂が入ってくるかもしれません。

お酒ばっかりではなくソフトドリンクも置いてあると嬉しいと思いつつ、わたしは家の方へ足を向けました。

どこからか名前を呼ばれた気がして振り返りましたが、そこに人の姿はありませんでした。ふと、道端に置かれた小さな看板が目に留まりました。

(了)

謝辞

このノートを公開した2月9日は『さすらい駅わすれもの室』シリーズ、そして『北浜東1丁目 看板の読めないBAR』の原作を書かれた脚本家・今井雅子先生のお誕生日でした。今井先生、お誕生日おめでとうございます。いつも素晴らしいお話をありがとうございます。

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