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一葉忌 〜24歳で残した数々の作品に驚愕

今日は樋口一葉の命日ですね。
前回の5000円札になっていた人ですが
「たけくらべ」や「にごりえ」を読んだことのある人は
少ないのではないでしょうか?

古文でもないし
現代文とも違うので、現代人にはとても読みにくいと思います。

私がたけくらべを読んだのは、高校時代
部活の顧問(社会科の先生)がたけくらべのことを

「日本語は何て美しいんだろう!」と感動した

と話されていたので、興味を持って読んでみましたが
普段聞き慣れていない言葉だったことと
ストーリー自体はシンプルなのですが
修飾語がやたら多くて、仰々しいと感じた記憶があります。

今日は一葉忌と気づいて、少し読み直してみました。
高校時代に修飾過多と思っていた、人物の描写など
美しい!と思いました。

例えば

解かば足にもとゞくべき毛髮かみを、根あがりに堅くつめて前髮大きく髷おもたげの、赭熊しやぐまといふ名は恐ろしけれど、此髷これを此頃の流行はやりとて良家よきしゆの令孃むすめごも遊ばさるゝぞかし、色白に鼻筋とほりて、口もとは小さからねど締りたれば醜くからず、一つ一つに取たてゝは美人の鑑かゞみに遠けれど、物いふ聲の細く清すゞしき、人を見る目の愛敬あふれて、身のこなしの活々したるは快き物なり、柿色に蝶鳥を染めたる大形の裕衣きて、黒襦子と染分絞りの晝夜帶胸だかに、足にはぬり木履ぼくりこゝらあたりにも多くは見かけぬ高きをはきて、朝湯の歸りに首筋白々と手拭さげたる立姿を・・・・・以降略

青空文庫より


高校時代には心に響かなかった言葉の美しさを
今なら感じることができました。
しかし、最近の文章術では、1文が長いのは駄文と言われています。
一方、樋口一葉の一文は驚くべき長さです。
当時の読者がどのような人たちだったのかはわかりませんが
この長い文章を理解しながら読めるからこそ
ベストセラーになったのでしょう。

現代の私たちには、馴染みがなく、読み難いと思います。
日本人の読解力が下がり続けていると言われていますが
日常の中に、こういう文章に触れる機会があれば
少しは維持できたかもしれません。

樋口一葉は明治5年3月25日に生まれ
亡くなったのが明治29年11月23日なので24歳で
肺結核のため亡くなっています。
そして、後世に残った作品は14ヶ月の間に書かれたものということにも
驚かされます。

正岡子規も34歳という若さで同じく肺結核で亡くなっています。
現代なら命を奪うような病気ではないことが残念です。
一葉や子規が夭折しなければ、どのようなものを残したのでしょう。

一葉は、幼少の頃より利発で、熱心に書物を読み向学心が高かったため
父親の計らいで、歌塾「萩の舎」に入門し和歌や王朝文学を学びました。

幼少より利発で向学心が高いといえば
紫式部のような人だったのではないかと思います。

以下、一葉の小説をWikipediaより転載しました。
引用元には、小説のあらすじが書かれていますが
現代のようにメールやネット検索ができるわけでも
多くの書物に触れるわけでもない時代に
24歳の一葉が、子を為し、中年を迎えた夫婦の機微など
小説に書いていたことをとても不思議に感じました。

闇桜(1892年3月『武蔵野』)
別れ霜(1892年4月『改進新聞』)
たま欅(1892年4月『武さし野』)
五月雨(1892年7月『武さし野』)
経づくえ(1892年10月『甲陽新報』)
うもれ木(1892年11月『都之花』)
暁月夜(1893年2月『都之花』)
雪の日(1893年3月『文学界』)
琴の音(1893年12月『文學界』)
花ごもり(1894年2月『文學界』)
暗(やみ)夜(1894年7月『文學界』)
大つごもり(1894年12月『文學界』)
たけくらべ(1895年1月 - 1896年1月『文學界』)
軒もる月(1895年4月『毎日新聞』[注釈 3])
ゆく雲(1895年5月『太陽』)
うつせみ(1895年8月『読売新聞』)
にごりえ(1895年9月『文藝倶楽部)
十三夜(1895年12月『文藝倶楽部』)
この子(1896年1月『日本乃家庭』)
わかれ道(1896年1月『国民之友』)
うらむらさき(裏紫)(1896年2月『新文壇』)
われから(1896年5月『文藝倶楽部』)

Wikipediaより

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