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イノベーションのためのアブダクション思考【前編】


1.構想力を解き明かす「アブダクション」

創造の土台

 「日本はなぜ、これほど長く停滞しているのか?」そんな問いを耳にしない日はありません。2018年に一橋大学名誉教授の野中郁次郎先生と『構想力の方法論』(日経BP社)を上梓しましたが、日本の「失われた30年」はそもそも構想力をうまく発揮できなかった結果であり、その重要性に目を向けてこなかったがゆえにイノベーションの停滞を招いたのだと、同書で問題提起しました。そしてその後書いたテキストを含めて再編集したのが、この夏(2024年7月)にシュプリンガー社(本社ドイツ)から出版された"Kōsō-ryoku: Conceptualizing Capability -- For Innovation and Management in the Age of Para-existence--”です。

Kōsō-ryoku: Conceptualizing Capability: For Innovation and Management in the Age of Para-existence Konno Noboru © 2024 Springer

 イノベーションが求められる時代、私たちが本当に必要としているのは「新しい観点」(POV:Point of View)を見い出だし実現していく力、構想力です。そして、この構想力を育む思考法こそがアブダクションです。アブダクションについては『構想力の方法論』で深く論じられなかったので、ここでは、私たちの「創造的思考の根柢に通じるもの」としてのアブダクション思考について考察していきます。

ありふれた中に潜む非凡を見いだす名探偵

 アブダクションは、一般的に直観的推論や仮説形成の方法と表現されることが多いですが、より大きくは、構想が形成される過程を説明する「創造の論理」として捉えることができます。この概念には、カントから米国の哲学者チャールズ・サンダース・パース(C.S. Peirce)に至る「構想力の哲学」の系譜が含まれています。
 パースは青年期にカントの『純粋理性批判』を集中的に研究し、大きな影響を受けました。パースは記号論とプラグマティズムの創始者としても知られていますが、特にプラグマティズムの概念は、カントの実用(実践)哲学に由来するとされています。

 こうしたパースの考えを、具体例を用いてわかりやすく説明しているのが『シャーロック・ホームズの記号論』(著者は米国の言語記号学者 T.A.シービオク、J.ユミカー=シービオク)です。この作品は、記号論や仮説推論の考え方を名探偵シャーロック・ホームズの推理を通じて説明するもので、推論の過程におけるアブダクションの役割を詳細に考察しています。ホームズが謎めいた現象を観察し、ユニークな兆候(普通の人が気づかないような出来事や物事・記号)を発見し、それらをもとに予想外の視点で仮説を立て、結論を導き出し、その謎を解明する、という過程が描かれています。これらの推論の結果に驚くワトソンの反応を通じて、アブダクションのプロセスが明らかにされていくのです。

 例えば、靴の泥の状態やタバコの灰といった細かい兆候から、ホームズがどのように具体的な事実を推論するのかが詳細に解説されています。このようなホームズの「ありふれた中に潜む非凡」を発見する能力が、アブダクションをドライブしていくのです。
 ホームズの推論過程は、私たちが未知の現象を直観し、そこから仮説を形成する(概念化)プロセスそのものです。つまり、直観と観察した現象との相互作用によって仮説が生まれ、論理的に発展していく。このプロセスこそが、パースが唱えた「創造の論理」の核心であり、アブダクションの重要性を示す一例となっています。『シャーロック・ホームズの記号論』は、単なる推理小説の分析にとどまらず、科学や哲学、コミュニケーションの理論にも通じる洞察を提供しています。

『シャーロック・ホームズの記号論 C.S.パースとホームズの比較研究』 1994 岩波書店

アブダクションに頼り、アブダクションを楽しむことのススメ

アブダクションは、一見ランダムで曖昧な手法のように思われるかもしれませんが、不確実で混沌とした世界においては、むしろきわめて合理的なアプローチとなります。予測可能で安定した世界では、帰納法や演繹法といったモデルがデータの分析や予測に適しており、一定の環境を効果的に管理する手段として機能します。しかし、今日の複雑で変化の激しいビジネス環境においては、それだけでは十分ではありません。柔軟性と試行錯誤を適用する能力、細部に至るまでの想像力、そして直観的推論に頼る能力がますます重要になっています。
 アブダクションは、単に目の前のデータを分析するだけでなく、不確実性の中から新たな可能性を見いだすための思考法です。既存の枠組みに囚われず、従来の常識を乗り越えて、創造的な発見を導き出す──それがアブダクションの本質です。これは、固定化されたパターンや予測可能なシナリオに依存するのではなく、むしろ未知の状況や意外性を受け入れ、それらを出発点として新たな仮説を形成するプロセスを指します。過去の成功体験に縛られることなく、斬新な視点を取り入れながら次の一手を模索する能力、そしてそのプロセスを楽しむマインドがいま求められているのです。

2.イノベーションの構想力

構想力、知識創造、アブダクションが基盤となる経営の時代

 アブダクションの論理に進む前に、まずイノベーションにおける構想力について考えておきたいと思います。

 イノベーションとは、新たな価値を創造し、それを実現することです。それは新たな知識が生み出され、普及していくことです。優れたアントレプレナーやイノベーター(個人も企業も)は、まず現実を徹底的に観察し、課題の本質を深く理解し把握します。そのうえで、理想の未来像を描き出します。しかし、現実の状況(現実界)と目指すべき理想(目的界)には必ずギャップが存在します。このギャップは、新たな知識の創出によって初めて埋めることができるものです。
 このギャップを埋めるために必要なのが、試行錯誤を伴う「知識創造プロセス」です。知識創造プロセスは、暗黙知と形式知の相互作用です。この過程を通じて、新たな知識が生まれ、それが組織や社会全体に影響を与えていきます。そして、このプロセスを推進する原動力こそが人間に備わった「構想力」です。(図1)
 この構想力には、単なる暗黙知と形式知の変換を超えた、人間の全人的な行為が深く関与しています。

図1 イノベーションにおける構想力とは?

 構想力は以下の3つの力からなります。

  1.  想像力:過去・現在・未来包括する広いパースペクティブを持ち、可能性を見いだす力

  2. 主観力: 自分自身や周囲の人々が「何をしたいのか」という意思や動機を引き出す力

  3. 実践力:現実をどのように変革するかという実践的知識と行動力

 これらの要素が組み合わさることで構想が生み出され、その構想の形成を促す原動力となるのが、「創造の論理」としてのアブダクションです。アブダクションは、新たな知識や仮説を形成する際に不可欠な推論の枠組みであり、不確実性の中から新たな可能性を見出す鍵となります。
 こうした構想力、知識創造、アブダクション思考が基盤となる経営の時代がやってきているのです。この新たな時代は、従来のように意思決定、競争戦略、論理分析思考のみを中心とするパラダイムとは異なり、柔軟性と創造性に富んだアプローチを求めています。これからの経営には、既存の枠組みを超えて新しい価値を生み出すための構想力が、ますます重要になるのです。アブダクションは単なるアイデア発想法ではありません。それは、近年注目される「デザイン思考」や「構想力経営」の基盤をなす思考の原理です。この論理がどのように企業経営と結びつき、実際のマネジメントに活用されているのかを見ていきましょう。

構想力経営を支える国際規格:ISO 56001

 私は、大学教員の傍ら、一般社団法人Japan Innovation Network の代表理事を務め、IMS 国際規格審議会の代表メンバーとして活動しています。
 2024年9月、ISO 56001というイノベーション・マネジメント・システム(IMS)の認証規格が発行されました。この規格は、政府や金融機関からの融資や投資のデューデリジェンスを含むさまざまな場面で、イノベーション活動の評価基準として活用される「共通言語」を提供します。このISO規格は、単なる管理プロセスを超え、経営全体を「創造型」へとシフトする世界的な動きの一環です。2018年に発行されたナレッジ・マネジメントに関するISO規格(ISO30401)も同様に、創造性と知識活用の重要性を強調してきました。

 しかし、いかに洗練されたマネジメントシステムがあっても、それだけではイノベーションを実現することはできません。鍵となるのは、企業が目指す未来像や実現したい価値を明確に描き、それに向かって構想力を発揮することです。この「未来を見抜く力」がなければ、目の前の課題だけに追われ、長期的な視点を欠いた経営に陥りがちです。
 たとえば、目指すべき未来を短期・中期・長期の視点で捉え、それに応じた戦略を設計するには、組織全体の変革が必要です。この際、アブダクションが重要な役割を果たします。アブダクションは、不確実性の中で新しい視点を見出し、未知の可能性を探索する論理です。この論理によって、これまで気づかなかったブラインドスポットを克服し、新たな価値創出の道筋を描くことができます。(図2)

図2 イノベーションのスコープと構想力(の欠如)

アブダクションと構想力の連結が組織変革のカギ

 構想力の欠如は、組織がこれまでの延長線上でしか考えられなくなる最大の原因です。そのため、ISO 56001を軸にしたイノベーション・マネジメントの成功には、組織文化そのものの変革が求められます。アブダクションはその変革を推進する力となり、未知の課題に対処するための思考を提供します。
 現代の経営では、アブダクションと構想力の結びつきが、未来を切り開くための本質的な武器となっています。企業が持続可能な成長を目指すためには、アブダクションを活用し、イノベーションを実現するための構想力を育むことが欠かせないのです。

【中編】アブダクションの論理 に続く


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